幸村誠『プラネテス』3巻 講談社 2003年

 「なんて雄々しく なんて美しく 意志の力に満ちた 哀しい機械」(本書より ロケットに対するハチマキの言葉)

 木星への出発を目前に控えて,ハチマキは,広大な宇宙の「闇」に対峙して,みずからのアイデンティティを失う。「どこへ行くのか?」「どこへ帰るのか?」 そんな虚無にどっぷりとつかった彼の夢の中にタナベが現れる。「ボチボチ帰りませんか?」−彼女の一言が,ハチマキを現実へと引き戻す…

 天動説から地動説への転換が,近代天文学のスタートとなったことは言うまでもありませんが,それとともに,「世界(宇宙)観」「人間観」の大きな変換でもありました。天動説では宇宙の中心,座標で言えば(0,0)であった人間が,任意の点,つまり単なる(x,y)へと「転落」してしまったわけです。そして,地動説による近代天文学が,人類の宇宙への進出の基礎となりました。

 だからといっても,わたしたちは,日々の生活の中で,みずからの存在が(x,y)であるということを自覚することは滅多にありません。第一,そんなことを気にしなくても十分に生きていけます。しかしハチマキが,茫漠たる宇宙を前にして感じたものとは,まさに人間=自分が,宇宙という巨大な座標上での「任意の点」でしかないということのリアリスティックな理解だったのではないでしょうか?
 それとともに生と死の間を分かつ皮膜の薄さの自覚でしょう。宇宙服に防護され,その中でしか宇宙で生きられない人間。ほんのわずかな宇宙塵の貫通によって,その人間の生と死は分かれます。彼の前に現れた「白猫」。おそらくその造形はシュレディンガーの猫からの連想ではないかと思います(作品の中では自動車に轢かれた猫,が直接のイメージとされていますが)。生きているか死んでいるかどうか判定できないとされる「箱の中の猫」,それは生でもない死でもない境界上に立つ「猫」でもあるのでしょう(それはタナベの幼年期に登場する「黒猫」にも通じるものがあると思います)。

 自分が「任意の点」であり,さらにその「点」はいつ消えてもおかしくない,と知ってしまったとき,人は,みずから自身で座標上の(0,0)を求めるのかもしれません。そしてハチマキにとっての(0,0)はタナベだったのでしょう。
 しかしタナベもまた「任意の点」であることに変わりはありません。むしろ作者は,タナベが生んだ親がいっさい不明な孤児であると設定し,さらにある一定の年齢まで「人間の言葉」を喋らなかったと描くことにより,彼女の存在の任意性・不安定性をきわだたせています。彼女が書いた(書けなかった)「真っ白な遺書」は,彼女が抱える不安の形象であるとともに,ハチマキが見てしまった宇宙の「闇」の,別の形での現れでもあるのでしょう。
 ハチマキ=白猫=真っ暗な宇宙と,タナベ=黒猫=真っ白な遺書とは,みずからの任意性・不安定性の,対となる現れ方と言えるのではないでしょうか。

 だからこそ,ふたりは互いの(0,0)として求めあうのでしょう。任意の点であるふたりにとって,任意でないために「帰る場所」としての(0,0)なのでしょう。もちろんそれを「幻想」と呼ぶことは容易いことです。しかしたとえ幻想であっても,自分の(0,0)を得ることにより,ただ単に虚空に浮かぶ「点」から,その(0,0)を基点とした「動き」を持ちます。基点から発し,基点へと戻る「動き」,それを支える「意志」…自分が「任意の点」であることを否応もなく自覚させる宇宙において,それこそが,その宇宙を渡っていけるエネルギィなのかもしれません。

 この感想文を書いている最中,スペースシャトル「コロンビア」の事故が報道されました。まだ原因などは不明ですが,乗組員7人全員が死亡とのこと。合掌。

03/02/02

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