夢枕獏・岡野玲子『陰陽師』6巻 スコラ 1997年

 ときは平安,現代よりも闇がはるかに深く,その奥底に魑魅魍魎,妖し,物の怪の類が息づいていた,そんな頃。都にひとりの男があった。呪をもちい,式を操る,稀代の陰陽師。名を安倍清明という。人々が彼を畏れ,遠ざくなかにあって,足繁く清明の屋敷に通う男があった。武に優れ,楽に長けるも,色恋にはとんとうとい朴念仁。名を源博雅という。そんなふたりが,都の闇で出会う怪異の数を描いたこの作品も,6巻目であります。全12巻の計画らしいので,ようやく折り返し地点,といったところでしょうか。楽しみにしていた1冊です。2編をおさめています。

「桃薗の柱の穴より児(ちご)の手の人を招くこと」
 大納言・源高明の住む桃薗邸。ある夜,小萩という女房が,柱の穴から出る子供の手を目撃した。妖しと見た家のものが,穴に矢を差し込むと,子供の手は消えたものの,つぎつぎと怪異が桃薗邸に現れ…
 一なる大極は二なる陰陽を生み,陰陽は三である物体を生み,物体は万物を生む。万物は木火土金水なる五つの性格を持つ。万物の理法は相生相克の五行に従う・・・・。
 物語の前半,清明の口を通して,めんめんと陰陽五行説の「理(ことわり)」が語られていきます。そして話は桃薗邸が鬼門である「艮(うしとら)」の方向にあること,さらに平安京成立以前,大陸より渡来した秦氏の呪法にまで及びます。こういった内容は陰陽師である清明にとって,みずからの「存在理由」なのかもしれません。清明は五行説に従い,桃薗邸の怪異を読み解いていきますが,その読み解きは,はからずもときの権力闘争にまで,波及していきます。
 が,清明が得たものは,やるせない現実です。人は「理」よりも「方便」を好むという現実です。「艮」の由来や神聖性も,現実のパワーバランスの中では,なんの意味も持たず,たんなる「鬼」でしかない。世間が陰陽師に求める「存在理由」とは結局「方便」でしかない。いつもは飄々とした清明が,めずらしく思い悩みます。そしてぽつりとつぶやきます,「春はまだ遠い」と。
「源博雅 朱雀門の前に遊びて鬼の笛を得ること」
 宴を離れ,ひとり夜の朱雀門にきた博雅。笛のしめり具合がいいと,一曲かなでる彼の前に,妙なる笛の音を奏でる童子が現れる。その音に感動した博雅は,人のものともつかぬ童子と,笛を交換する。笛の名は「ふたつは」。一方,梅雨明けに解体の決まった三条大橋に怪異が…
 ううむ,あらためて岡野玲子の絵の巧さを感じました。冒頭,人とは思えぬ童子が笛を吹きながら,風のごとく身軽に舞うさまは,思わず「ぞくり」とするぐらいの「凄み」と「エロチシズム」を感じました。原作者の夢枕獏は,コミックにもかなり思い入れがあり,自分の作品をコミック化するときは,作画者にこだわるようです。だからこそ谷口ジロー『餓狼伝』のような傑作が生まれたのだと思います(石川賢『九十九乱蔵』は,やはり『小学四年生』という「しばり」がちょっときつかったですね)。本作品もまた岡野玲子という作画者を得なかったら,これほどまでに優美にして妖しく,美しい作品は生まれなかったでしょう(わあ,手放しの褒めようですなあ)。
 さて物語は,博雅の笛をめぐる怪異と,三条大橋の怪異とが平行して描かれ,そのふたつの流れが重なり合うところに,例によって清明が・・・。ミステリアスな展開は,なんともわたし好みではありますが,それ以上に,博雅のキャラクタがいいです。とくにラストシーン。清明とともに,ふたたび朱雀門に来た博雅。「ふたつは」を奏でながら,「物精よ,おまえは何者なのだ。もう一度現れてくれ,頼む」と涙を流すラストシーン。つくづく博雅という男,「好漢(よきおとこ)」なのだなあ,と思わせてくれるシーンです。

 それにしても,一度いいから,清明の「丸目」を見てみたいですね(笑)。

97/09/08

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