楠桂『鬼切丸』13巻 小学館 1997年

 「鬼」とはもともと「隠(おぬ)」という言葉に由来するらしい。「隠」とは,「かくれている」「目に見えない」ことやもの。昼の陽光,秩序,理性の陰に隠れ,目に見えないことども。

 たとえばそれは心の闇。「無邪鬼の章」では,子どもたちの心の奥底に秘められた「隠」。「鬼はいる。いた方がおもしろい。鬼はいるさ。先生は鬼に喰われるんだ。襲われてしまえ」子どもたちの暗い想いは,鬼という形となって教師を,「鬼なんかいない」と,少年の頬に平手をくわえた女性教師を襲います。「見たこともない血にあこがれ,それをまのあたりにしないと,その残酷さに気づけない」子どもたちの心が鬼を呼びます。主人公の少年“鬼切丸”は,それを「無邪気さ」と呼びます。しかし,はたしてそれは子どもたちだけのものなのでしょうか。

 たとえばそれは記憶の闇。「鬼性の章」では,10年前,遠足の時に行方不明になった秋穂の死体が発見されます。幼い頃,秋穂にいじめられた朱美は,それ以来,秋穂の影におびえます。「きっと,もっと恐ろしい鬼になって,またわたしをいじめにやってくる。今度はきっと殺される」暗い記憶が呼び込む鬼。「殺らなきゃ,殺られる」。朱美の心の中で鬼となった秋穂に対抗すべく,みずからが鬼と化します。しかし本当に鬼を呼び込んだのは秋穂ではなく朱美自身。彼女の歪んだ記憶。「だっていじめられてたのは朱美なんだもん・・・。」人はみずからの都合のいいように記憶を改変するといいます。与えた傷は小さく,受けた傷は大きく,そして加害者は被害者に。そんな記憶の闇が誰にでもあるのではないでしょうか。

 たとえばそれは恋の闇。「花鬼の章」,橋のたもとにたたずむ花魁の魂に名前はありません。「名は,名のるものではあらしまへん。愛しい人によばれるためのものどすえ」そして彼女は待ちます。鬼にならずに,花になるために・・・。しかし鬼が潜むのは死者にではなく,生者の側にあるのかもしれません。女のたたずむ橋に“呪い橋”という名をつけ,不実な恋人に呪いをかける少女たち。彼女たちの愛の闇が,名もなき女を鬼に変えます。生者の闇は死者の闇よりも,よりいっそう深いのではないでしょうか。

 たとえばそれは欲の闇。「鬼患いの章」の拓巳は,不治の病から生還します。「こんな無茶な願いかなえてくれるなら,なんにでもすがってやる。誰をふみつけにしたってかまわない。だから僕に丈夫な体を・・・」そして手に入れた“丈夫な体”が彼を蝕みます。人を傷つけ,恋人を殺し,そしてみずから死ぬことさえもままならない“丈夫な体”が,拓巳を鬼へと変貌させます。しかし「生きたい」という,そんなあたりまえな想いさえも鬼に変わるならば,人と鬼とは,どこまでもけっして離れることのできない,呪われた運命共同体のようなもの。鬼の恐ろしさは,そんなところにあるのかもしれません。

 だから人のいるところに,必ず鬼はいるのでしょう。光があるところに影があるように。そう,普段は影に隠れた,目に見えない「隠」として・・・。

97/09/24

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