山岸凉子『鬼』潮出版社 1997年

 中編の表題作と短編「肥長比売(ひながひめ)」の2編をおさめています。

「鬼」
 M美大のサークル“不思議圏”のメンバー7人は,夏合宿のため岩手県の広林寺を訪れる。そこで葉山あぐりは,周囲に子どもはいないのに,子どもの鳴き声を聞く。しかし広林寺には,かつて飢饉の際に,口減らしのため子どもを捨てたという伝説が伝わっていた…
 物語はふたつの流れで構成されています。ひとつは不思議圏のメンバーが体験するさまざまな怪異と,彼ら自身の“子ども”としてのつらい過去。たとえば葉山あぐりの「あぐり」という名前は,男の子がほしいのに女の子ができたときに「飽く」という言葉に由来するといいます。水野舞の両親は離婚し,父親は再婚してロスアンジェルスにいます。また中沢純司は寺の跡継ぎのために養子にもらわれ,草薙宏はコインロッカー・ベビーです。
 もうひとつの流れは天保の大飢饉の際に穴の中に捨てられた子どもたち。彼らは生き延びるために死んだ仲間の肉さえも喰らいます。そして親を思い,呪い,“鬼”になります。現代の主人公たちの苦悩は,天保の子どもたちに比べれば,はるかに軽いものかもしれません。しかしともに親たちの都合で翻弄される点では共通し,彼らの親子関係の悩みは,時を超えて共振します。
 とくに,同じように親に捨てられ殺されそうになった草薙はまっさきに,穴の中で痩せ細り血の涙を流す末松(穴の中の最後の生き残り)の姿を幻視し,そして共鳴,憑依されます。草薙の口を通じて明らかにされる穴の中での惨劇,人肉を食べてしまったために成仏できず“鬼”となってしまった末松。親を愛するがゆえに,理不尽な親を憎んでいる自分を許せない末松の心情。そしてそれは不思議圏のメンバーたちの心情でもあります。
 彼らは,末松を成仏させようと,末松の怨みや行動を理解しようとし,そして「親を許すことが自分を許すことになる」という結論にたどりつきます。そのことは,同様に彼らの親に対するわだかまりを氷解させ,子どもを翻弄する親たちから自立することにもつながっていきます。末松の成仏と彼らの自立は,桎梏ともいえる「親子関係」からの脱却を暗示して,物語はエンディングを迎えます。大飢饉,人肉食といったショッキングな題材を取り上げながら,この物語は,現代の親子関係を照射しているように思えます。ただ,この作者の描く「子ども」の顔形は,少々コミカルすぎるのが難といえば難ですね。
「肥長比売」
 舞台は古代出雲。出雲を支配する豪族の末娘・肥長比売は,大和から来た王のもとに,犠牲としてさしだされる。しかし彼は優しく,比売はしだいに彼を愛するようになり…
 この作者お得意の,日本古代ものというか,日本神話ものです。あくまで政治的配慮として比売を抱いた王と,彼を愛してしまった比売の悲劇とでもいいましょうか。物語のラストで,蛇に変身した比売は,出雲を離れる王の船を追い,王ではなく,王が大和に連れていこうとした出雲の娘・イヅメをくわえ,海中へと引きずり込みます。
 小泉八雲の小説で,先妻の霊が,「再婚しないでくれ」と約束したにも関わらず再婚してしまった男の後妻を,祟り殺すという話があったように思います。八雲が友人に「約束を破った夫を祟るべきではないか」と問うと,「女はそうは考えないのだよ」と友人は答えます。また最近でも,愛人が不倫相手の奥さんと子どもを殺すという悲惨な事件がありました。なぜ,不実な恋人ではなく,イヅメや後妻,奥さんや子どもを殺すのか? フェニミズムの論者であれば,いろいろと男性中心社会の問題を指摘するのかもしれませんが,わたし個人としては,どこか理解を超えた部分があります。道成寺みたいにストレートなほうが理解しやすいように思います。女性はこういう話をどう思われるんでしょうかねえ?

97/10/11

go back to "Comic's Room"