真刈信二・中山昌亮『オフィス北極星』10巻 講談社 1998年

 まずは「特別編」の2編「勇気を見たがる女」「Pinball Wizard」は,ともにファンタジックなエピソードです。とくに前者は,欲望渦巻くニューヨークを舞台にした「奇妙な味」風の味付けで楽しめました。

 そして本巻のメインとなる「CASE XI 天使の懺悔」は,このシリーズのファイナル・エピソードです。うっうっ・・・物ごとに必ず終わりがあるとはいえ,悲しいですねぇ・・(T_T)(そのせいでしょうか,カヴァ裏は,ゴーと彼が関わってきた女性たち揃い踏みのカットです)。
 さて,日本企業のリスク・マネージメントを生業とするゴーでありますが,彼の尽力にも関わらず,問題を起こす日本企業は後を絶たない,「まるで賽の河原だ」と,ゴーは無力感にさいなまれます。そんなとき彼は,サックス奏者にして神父“パパ”ルートマンに出会います。ところが,モグリで孤児たちを養うルートマンは,かつて教会で育った少女ジーンの恋人の讒言により,未成年者に対する性的虐待の嫌疑で逮捕されてしまいます。ジーンはパパに,それが恋人の企みであることを懺悔しますが,神父は「懺悔の内容は公表できない」と証言を拒否。ジーンもまた「神様がパパを助けてくれる」といたって楽天的。はたしてゴーはパパを救うことができるのか?・・・というストーリィです。

 アメリカの文化人類学者ルース・ベネディクトは,『菊と刀』の中で,欧米人が価値基準を「神」に置くのに対し,日本人は「恥」を価値基準とすると書きました。彼女の議論の是非はともかく,アメリカを含む欧米諸国と日本との価値観や考え方の違いの大きなもののひとつとして,やはり「神」というものがあるように思います。“パパ”を弁護する弁護士カルロス・ブランコは,ニューヨークの管理司教トリヤーニ「教会を敵に回すのか」という言葉に,「破門されたらどうしよう」と嘆息します。それに対してゴーは「破門されたら他の教会に行きゃいいじゃないか」と励まし(?)ます。まぁ,ゴーも能天気といえば能天気ですが,ここらへんの受け止め方の違いが,欧米人と日本人との間にあるのかもしれません。

 閑話休題・・・・
 ひとつの裁判をめぐって,さまざまなキャラクタが「神」をめぐってそれぞれの立場を示します。パパは,「懺悔は公開しない」という神父としての義務感から,ジーンを証言台に立たせません。また教会を手伝う日本人チヒロは,ジーンのことを「花」と呼び,彼女が証言台に立つことは彼女を深く傷つけることになるから,とパパと同じ立場です。当事者のジーンもまた,「パパはなにも悪いことはしていない。神様がパパを救ってくれる」と,あっけらかんとしています。
 「神」に対する信仰は,必ずしも非難されるべきものではありません。その信仰によって,その人が心強く生きていければいいわけですし,また信仰の結果として,他者に対する慈愛や援助が育つこともあるかもしれません。しかし「神」に対する信仰は,けっして「依存」ではありません。また社会的弱者に対する「保護」も必要なことです。しかし,信仰が依存でないのと同様,保護もまた,保護されるものの保護するものに対する依存を良しとするものではありません。
 パパやチヒロ,ジーンに対して,ゴーは思います。
「彼女(ジーン)は子供じゃないんだ。責任を持って強く生きることができなくちゃ,枯れてしまうんだ」
 ラストで,ジーンは裁判所で証言します。自分(ジーン)のために無実の罪に陥れられようとしているパパを救うのは,「神様」ではなく,自分の証言であるということを自覚したジーン,彼女を厳しい外界から隔離することで,彼女を「保護」するのではなく,ひとりの自立した人間としての彼女の“懺悔(証言)”を受け入れたパパ。この場面において,パパとジーンは,「神」を介することなく,ひとりの人間とひとりの人間として,はじめて対面したのかもしれません。

 このシリーズは,なによりも,このような「人間」を描くことこそが目的だったのでしょう。
 長いこと,楽しく,また勇気づけられる物語を,ありがとうございました。

99/01/10

go back to "Comic's Room"