漆原友紀『蟲師』2巻 講談社 2002年

 「休むのだって生きるためにゃ切実な問題だ」(本書「雨がくる虹がたつ」より)

 “蟲師”ギンコを主人公としたシリーズの第2巻です。5編のエピソードを収録しています。

 さて本編の主人公“蟲師”は,人には見えないものを見,触れ得ないものに触れる“異能人”です。そしてそれは「能力」というよりも「資質」「体質」と言っていいでしょう。ギンコは言います。「蟲を…寄せるもんですから。ひとつ所に住めば,半年ほどでそこを蟲の巣窟にしてしまうでしょう」と。それゆえに彼は彷徨わねばなりません。しかし同じ蟲師でありながら,「ひと所」に住む老人と出会うエピソードを描いたのが「やまねむる」です。
 ふともらした言葉のために,老蟲師は,苦痛を背負って「ひと所」に住まねばならなくなります。それが「呪い」によるならば,あるいは「憎しみ」によるならば,まだ「救い」はあったのかもしれません。しかし「一途な愛」のためにそうならねばならかったがゆえに,彼の苦悩は哀しみに彩られるものとなっています。みずからの身を滅却することによってしか解放されなかった男の姿は,哀しいながらも,どこか「ほっ」とさせるものがあります。

 「禁種の蟲」を封じることを宿命づけられた少女を描いた「筆の海」もまた,蟲師と同様,「異能」を持ってしまったことに起因する哀しみがメイン・モチーフとなっています。この作者の朴訥なタッチで描かれる少女のあどけなさが,また「文字」の形をした「蟲」の姿のおぞましさと,それを封じるために苦痛に耐えながら「文字」を書いていく少女の健気さが鮮やかなコントラストをなし,その哀しみをより深いものにしているといえましょう。本巻中,一番好きなエピソードです。

 「露を吸う群」は,蟲に寄生されることによって,一日ごとに死と再生を繰り返す少女が登場します。いったんはギンコによって蟲を封じられても,最終的に,ふたたびこの蟲に寄生されることを選ぶ少女あこやの姿を,「逃避」と呼ぶことは容易いでしょう。しかし蟲から「解放」された少女が感じる「目の前に広がるあてどない膨大な時間」に対する恐れと不安を,人はどれだけ耐えられるのでしょう。予定をたて,スケジュールを調整し,仕事の合間に余暇を取る…それらの「大人の行為」とは,あこやが感じる不安を拭うための方便なのかもしれません。
 ところで本エピソードの元ネタは,かつて話題になった『ゾウの時間 ネズミの時間』なのでしょうね。

 「雨がくる虹がたつ」に出てくる,虹の「つけね」を追い求める男もまた,ある意味「蟲に憑かれた人」でしょう。蟲である虹蛇を追う男は,「なぜ追うのか?」という理由や目的をギンコに語ります。しかし虹蛇は,そんな人間の思惑とはいっさい関わりはなく,ただ「流れる」ものとして「在る」だけです。本編における“蟲”とは,人間が勝手に名前を付け,意味を与えたものなのでしょう。
 だからこそ,男は虹蛇−人間とまったく関係のない蟲−に触れることで,自分を縛ってきた「虹蛇を追う理由や目的」から解き放たれたのかもしれません。最後にわずかに触れられる「橋」の形とは,そんなこだわりから抜け出た男だからこそ発想できたものなのでしょう。

 本巻ラスト「綿胞子」に出てくる,人間の子どもの似姿で現れる蟲綿吐は,どこかヨーロッパのチェンジリングを彷彿させる不気味な存在です。で,読んでいて,ふと三原順『ロング・アゴー』に出てきたエピソードを思い出しました。主人公が人間に媚びを売る御座敷犬を嫌っているのに対し,その飼い主の女性が「ならば,媚びを売る以外の生きる他の術を,この犬たちに与えられるかしら?」と問いかける,というエピソードです。
 人間の幼児の姿を取ることで,人間の関心と保護を導き出し,それを利用してみずからを繁殖させていこうとする蟲…たしかに不気味ではありますが,それもまた「自然の法」に則った「生」の在りようなのかもしれません。最後にギンコが綿吐を救い出したのも,彼の「自然」や「生」に対する敬意に発しているのではないでしょうか。

02/03/02

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