漆原友紀『蟲師』1巻 講談社 2000年

 頃は,そう,あったかもしれないし,なかったかもしれない時代。場所もまた日本かもしれないし,日本でないかもしれない・・・そんな,人がいまだ人以外の「モノ」に「畏れ」の気持ちを持って生きていた時代と場所・・・風の噂を頼りにしながら,「蟲」と呼ばれる「モノ」を追い求め,蟲師ギンコは今日もまた街から街へ,村から村へ・・・

 この作品,掲示板だったかメールだったかでご紹介いただいた作品なのですが,どなたからのものだったか失念してしまいました(乞うご容赦!(_○_))。しかし,そのユニークなタイトルから記憶に残っていて,書店で発見,即購入しました。

 で,一読・・・いいですねぇ・・・モロ好みです。
 近年,「妖怪」や「物の怪」が出てくるマンガ作品は数多くありますが,それらの多くにおいて,妖怪・物の怪は「人に対立するもの」「人に害なすもの」として描かれています。主人公は,人か,あるいは「異能」を持った人物に設定され,それら妖物を退治する役割が課せられています。主人公と妖怪との対決,そして勝利が,躍動感ある物語を生み出しています。
 しかし本編における「蟲」は,必ずしもつねに「敵対」するものではありません。主人公の「蟲師」ギンコは,「蟲」を「生命の原生体(そのもの)に近いもの達」と呼びます(「緑の座」)。つまり人と「蟲」とは,地球上に発生した生命体として同一地平に置かれています。たしかに「蟲」は人を害するときがあります。たとえば「柔らかい角」に出てくる「阿」という蟲は,人の耳に寄生し,「音」を喰らうことで人を衰弱死させていきます。また「枕小路」「夢野間(いめのあわい)」は,ひとりの男を狂気へと導き,破滅させていきます。
 しかし「害があること」は,「悪意があること」と同義ではありません。人を病気にするウィルスが,人に悪意を持っているわけではないのと同様です。ですから「夢野間」に取り憑かれ苦しむ男に対して,こう言います。
「おまえに罪などないさ。蟲にも罪などない。互いに,ただその生を遂行していただけだ。誰にも罪などないんだ」
 それゆえ,ギンコの「蟲」に対する態度は,「敵意」や「退治」といった類のものではなく,むしろ「治療」に近しいものといえましょう。
 また「蟲」が人に「悪意」を持たぬ以上,ときとして人を救いもします。「緑の座」の蟲は,特異な能力をはからずも持ってしまった少年の「護り」として彼の傍らに生きていくことを決心します。あるいはまた「旅をする沼」「水蟲」は,村のために人身御供にされた少女の命を蘇らせます。
 日本には「八百万」の神がいると言います。それはすべての「モノ」に神が宿るというアニミズムなのでしょう。あるいはまた日本の神には「善悪」はなく,ひとつの「力」だとも聞いています。ならば「蟲」もまた,そんな「神」のひとつなのかもしれません。そして「蟲師」とは,神に仕える「巫師」とも呼べるのではないでしょうか。

 それから本作品が気に入った点は,その絵柄です。この作者の描く絵は,けっして洗練されたタッチとは言えません。むしろ(言葉は悪いですが)「泥くさい絵」とでもよべそうなタッチです。しかしその土俗っぽい絵柄が,作品のモチーフとじつによくマッチしています。どこか諸星大二郎の初期作品や水木しげるの作品に通じるものがあるように思います。

 日本のマンガ界は,「伝奇作品」の新たな,個性豊かな語り手を得たようです。

01/06/09

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