熊倉隆敏『もっけ』1巻 講談社 2002年

 「奴らは居ンのが当たり前ェ……俺らは奴らと交渉する立場なんだ。拝んで離れて戴くんだよ。誰でも彼でも祓えるような大層な身分じゃねェ」(本書「#2 オクリモノ」より)

 普通の人には見えない“もの”が見えてしまう姉・静流,その“もの”に憑かれやすい体質を持つ妹・瑞生,そんな姉妹をときに厳しく,ときに暖かく見守る“拝み屋”の祖父。この3人をメイン・キャラクタにした連作シリーズです。なお「第1話 ウバリオン」は,どうやらこの作者のメジャー・デビュー作のようです。すごいよなぁ,最近の新人の画力は…(やっぱり同人誌で培っているのでしょうかね?)

 全部が全部というわけではありませんが,最近のフィクションに登場する「妖怪」やら「もののけ」やらは,妙にアグレッシブというか活力旺盛というか,なにかというとバトルを繰り広げる傾向にあるようです。まぁ,それは「対決もの」全盛期の(少年)マンガ界にあっては,お話作りとして致し方ないものもあるのかもしれませんが,わたしの持つ「妖怪」「もののけ」のイメージというのは,なんというか,もっと「静的」,端的に言って「わけのわからないもの」といった感じが強いです。
 たとえば「小豆洗い」というのは,見た目にはちょっと怖そうな感じですが,要するに,山中で聞こえてくる「小豆を洗うような音」でしかないわけですし,「ぶるぶる」なんてのも,背中を走る悪寒の形象化とも言えます。もちろん人間に害をなす妖怪などもいないわけではありませんが(「つつが虫」などとか),それは「害をなす」であって,必ずしも「人間に対して悪意を持っている」存在ではないように思います。つまり西洋で言うような「悪魔」などとは決定的に違います。
 野に咲く花が,人間が見ていようがいまいが,その本性に従って,つねに花を咲かせるように,あるいはまた,川の水が上流から下流に流れるように,そんなものと同じように,妖怪やもののけもまた,人間たちの傍らにいるのかもしれません。ときに「害虫」と同じように人間にとって不利益が生じる場合があったとしても,「悪意」などとは,とんと無縁にいるのかもしれません。
 たとえば「#4 ミノムシ」に出てくる「蓑虫・蓑火」呼ばれる“陰火”は,さながら,一陣の風のように静流を取り巻き去っていきますし,また「#5 スダマガエシ」の犬のような形をしたもののけに,瑞生の心は囚われてしまいますが,そのもののけは最後に言います。「我は戯れたくて仕方ない」と。
 つまり,本作品における妖怪やもののけは,そんな「自然の一部」として存在するものとして設定されています。「拝み屋」であるお祖父さんの,上に引用したようなセリフに,そのことが端的に表れているのでしょう。その点は,個人的にはすごくすんなりと受け入れられるとともに,何かと人間に「害をなし」,ときに「悪意」さえ持って立ち向かってくる,近年のフィクション中の「妖怪」「もののけ」とは大いに異なり,逆に新鮮に感じられます。
 けれども,人間同士でさえ,コミュニケーションの取り方次第では,相手は良くもなり悪くもなるのと同様,人間と妖怪との間でも,それなりの「つきあい方」が求められるのでしょう。「#2 オクリモノ」に登場する妖怪は,心の持ち方ひとつで,大きな災難を招く危険性もありますし,また「#6 ワライヤミ」の「声」は,人の心にある「闇」と「哀しさ」を増幅させる力を持っているようにも感じられます(もっとも子どもの瑞生にとっては,単にイライラさせられ,鬱陶しいものに過ぎないようですが(笑))。
 そして人間同士のコミュニケーションならば,経験する機会も多く,試行錯誤を繰り返しながら体得していけますが,妖怪相手の場合,けっして誰も彼もが「経験」できるわけではなく,ある特定の「力」を持った「異能者」のみに求められます。それは一方で,彼らを孤独にさせますし,また一方で,一般人が知ることのできない「未知の世界」と接触できる特権をも与えます。「孤独」と「特権」を持った異能者に,小学生と中学生というふたりの少女を当てたところも,この作品に独特の手触りを与えているように思います(とくに「#1 ウバリオン」に,その設定の妙味が現れていますね)。
 もっとも,「神」と通じることのできる媒介者が,古来,少女(処女)であったことを考え合わせると,上に書いたような妖怪・もののけの性格とともに,すごく自然なことのようにも思えます。
 そんな風に,つらつらと考えてきますと,この作品,古くから語り伝えられてきた妖怪やもののけ,そしてそれと通じる力を持った存在としての少女,という,すごくトラディッショナルな「民話的世界」を,現代に蘇らせた作品としても,読むことができるのかも知れません。

02/08/17

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