島本和彦『燃えよペン』MF文庫 1999年

 「この物語はフィクションだが,フィクションでない所もある!!」(本書より)

 マンガ家・炎尾燃(ほのおもゆる)。月刊連載3本,どこにでもいるありふれたマンガ家である。だが,彼のマンガにかける情熱は,いかなる大作家にも負けないものがあった!

 「針小棒大」という言葉があります。国語辞典を見ると,「物事をひどく大げさに言うこと」とあるように,日常的な使い方としては,マイナス・イメージの強い言葉と言えましょう。しかしマンガの世界では,その「針小棒大」は,常套的な表現のひとつであり,それをうまく使いこなせるかどうかは,作家の重要な力量と言っていいかもしれません。
 たとえば本宮ひろ志の初期「番長もの」では,キャラクタ背後の効果線や斜線が多用され,人間とは思えぬ跳躍力でライバルを蹴り倒し,そのライバルもまた,現実なら確実に死ぬな,というくらいに大げさに吹っ飛びます。この手の表現はさらに,数々のスポーツ・マンガにも受け継がれ,画面を盛り上げる典型的な描画技法として定着しています。
 一方,読者の方はそのような表現が,誇張であることを重々承知しています。しかし,その誇張表現は,語る内容,描く内容と同じベクトルを持っている限り,技法が内容を盛り上げることはありこそすれ,両者の間に齟齬や乖離は,さほど目につきません。
 この作品の作者島本和彦は,マンガ特有の誇張表現と,その描く内容との間に意図的に齟齬や乖離を導入することで,それをギャグに転化するという作風をみずからのスタンスとした作家と言えます。彼の出世作『炎の転校生』は,番長ものや格闘もの,あるいは特撮ヒーローもののコードや表現を踏襲しつつ,その一方で些細な日常性をふんだんに盛り込むことで,両者の齟齬・乖離を楽しむという独特の世界を創り上げています。
 本作品は,表現と内容との齟齬・乖離という,同じ手法を用いてはいますが,その使い方はちょうど正反対ではないかと思います。『炎の転校生』が,フィクショナルな舞台設定に,日常性を持ち込んだのに対し,この作品では逆に,日常性の中に大げさな表現や描画を導入することで,齟齬・乖離を生み出しています。たとえば,それは編集者との打ち合わせであったり,出版社主催の忘年会であったり,締め切り直前の修羅場であったり,同じ掲載誌でのライバルとの張り合いであったりします。それらはいずれもマンガ家にとっては「日常」なのでしょうが,作者はそこに格闘もの的なコードや表現を導入することで,その日常をドラマチックなものに仕立て上げています。しかしそのドラマ性は,多分に「うさんくさい」ものであり,「そんなことねぇだろ!」的なものです(効果線を描くためにオートバイを燃やしたり,「熱い心」を得るために災害の中に飛び込んでいったり・・・)。しかしその「うさんくささ」がこの作品のギャグとなり,おもしろさとなっているわけです。
 夏目房之介は,「マンガ表現は記号だ」と言いました。なにものかを表現するために開発され,洗練された記号としてのマンガ表現を,逆に記号として遊んでしまう,意図的に記号と意味との間に齟齬を生み出す,という方法の出現も,マンガ表現の成熟さを表しているのかもしれません。

(とてもギャグマンガの感想文とは思えぬほど,大げさなものになってしまいました。これこそ「針小棒大」なのかもしれません(笑))

00/05/18

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