森川久美『イスタンブル物語』全6巻 角川書店 1989〜1991年

 1921年,第一次世界大戦に敗れたトルコは,イギリス・フランス・イタリア・ギリシア4ヶ国によって支配されていた。若き歴史学者ルパートはアナトリアの遺跡を見るため,イスタンブルを訪れるが,その地は帝政打倒を叫ぶ反乱軍ケマル・パシャによって占拠されていた。ルパートは知らず知らずのうちに,トルコの革命動乱に巻き込まれていく・・・

 掲示板でお馴染みの踊るらいぶらりあんさん@ときどき通信からお送りいただいた作品です。らいぶらりあんさん,ありがとうございます(_○_)

 『蘇州夜曲』『南京路に花吹雪』『Shanghai 1945』―わたしが,勝手に「中国三部作」と呼んでいる,この作者の代表作(と,これもわたしが勝手に思っているのですが)は,日中戦争へと雪崩れ込んでいく暗い時代を背景として,それをとめようとする主人公たちの苦闘と,日中の狭間での苦悩を描いた作品です。しかしわたしたちは,主人公たちの苦闘にも関わらず,日中間で戦争が勃発し,泥沼化,日本人・中国人双方に深い傷跡を残す結末にいたるという歴史を知っています。それゆえ,作品からは暗く重いトーンを感じざるをえません(とくに『南京路』においてその印象が強いです)。それはまた,国家の力の論理を前にした個人の無力さとも言えます。

 本作品もまた,イギリス・フランス・イタリア・ギリシアによって支配されたトルコを舞台にし,ルパート・ウィリアムズという侵略者側のイギリス人を主人公にしている点,「中国三部作」と共通します。またルパートとアリフとの関係は,本郷黄子満とのそれにオーヴァ・ラップします。さらに,「革命」という「政治暴力」の狭間で,ルパートの心は引き裂かれ,「僕にはトルコ人の血が流れていない」ということに涙を流します。
 そういった「中国三部作」に通じる設定,キャラクタ,ストーリィでありながら,本作品は,「中国三部作」にはあまりないコメディ色が強く出ています。とくにアンとルパートとを軸としたラヴ・コメディは,「無邪気な悪女」に振り回される主人公を描いた,古いコメディ映画を見るような「ノリ」で展開していきます。また皇帝派の警備隊と対立し,アンカラに向かうことになったルパートと村人たちの姿も,戦いや死がつきまといながらも,どこかほのぼのとしたユーモラスなところがあります。なぜに両者は受ける印象が違うのか? おそらく,「中国三部作」が避けえようのない悲劇的な結末に至らざるを得ないのに対し,本作品には,侵略者からの独立という「希望」があるからではないでしょうか? 主人公たちは苦闘し,苦悩しますが,それが独立によって酬われるという未来があるからなのではないかと思います。

 もちろん「革命」とはきれい事だけで済む話ではありません。それは「革命の英雄」ケマル・パシャのセリフに象徴されています。彼は言います。
「正義のための戦いなんかない。あるのは生き残るための戦いだ。夢など見るな。復讐も憐憫も私には無縁だ。勝つことだけがすべてだ!!」
 あるいはまた,トルコの独立は,感動的な大勝利によって達成されるのではなく,複雑錯綜した国際政治の場での妥協によって成し遂げられることも,「革命」がまごうことなく「政治」であることを意味しています。ルパートは,そんな国家の力を前にして無力感に襲われます。そんな彼に対してアリフは言います。
「『妥協』を産み出すのは何かを信じる力だ。そうやって信じて信じていつか何かを産み出せるんだ。夢を見ない人間を何も産みださない・・・!!」
 たしかに国家の,歴史の巨大な力,流れの前に,人ひとりの力など微々たるものでしかないのでしょう。しかしその一方で,それらを超えて結びつく人と人との心があり,そんなつながりが(たとえ妥協であったとしても)何かを変えていくのでしょう。政治も歴史も人と人とのつながりでできあがっているのでしょうから・・・

 そして,中国大陸で引き裂かれた本郷と黄子満の魂は,トルコのイスタンブルで邂逅したのかもしれません。

00/03/18

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