山下和美『不思議な少年』2巻 講談社 2002年

 「君の命がもしも永遠なら,君は永遠に死を知ることは出来ない」(本書より)

 さまざまな時代,さまざまな場所,さまざまな人々の前に現れる“不思議な少年”を主人公としたシリーズの第2作。
 時空を超えることのできる“少年”は,永遠の存在なのかもしれません。本集においても,そのことが匂わされます。しかし「永遠」であることは,必ずしも「絶対」であることを意味しません。
 たとえば本巻冒頭の「第四話 鉄雄」。このエピソードには類い希な美声を持つ少年鉄雄が登場します。しかし時代は終戦直後,彼の“声”に気づくものはなく,また思いを寄せる少女も,彼の元を去っていきます。そんな鉄雄に,“少年”はオペラのステージで歌う場面を幻視させます。鉄雄の“声”を愛するがゆえに,その“声”がふさわしい場所を用意します。
 けれどもそれは鉄雄によって拒絶され,さらに被爆した彼は,わずかに犬だけに見守られながら,ひとり死んでいきます。ここでは“少年”の「力」は,鉄雄の意志と人間の死すべき運命の前に無力です。

 また,死刑を翌日に控えた古代ギリシャの哲人ソクラテスに「永遠の命」を与えようとするのが「第五話 ソクラテス」です。しかしそれを拒絶されると,なによりも「対話」を大事にするソクラテスに,“少年”は,その対話が不在であるがゆえに起こる歴史上の悲惨さを見せます。けれども,ソクラテスの残した言葉−「わたしは自分が知らないということを知っている」−が,ひとりの男の自殺を止めえたということを知り,逆に“少年”に言い返します。それが冒頭に引用した文句です。それに対して“少年”は何も答えられません。「永遠」であるがゆえに「死を知らない」=「絶対」ではない…ソクラテスが彼に(そして読者に)気づかせたことは,そういったことなのでしょう(ところで,彫像などだと,いかめしい容貌のソクラテスを,まるでキューピー人形みたいな(笑)顔立ちで描いたのは,ソクラテスの「知らないがゆえに質問を繰り返す」という問いの持つ「子ども心」を表わそうとしたからなのかもしれません)。

 さてソクラテスは,“少年”に「これからもたくさん人に出会うといい」と言い残しますが,「第六話 タマラとドミトリ」で描かれるのは,一生の大部分を夫ドミトリ以外に逢うことなく過ごす妻タマラの生涯です。舞台はシベリアのタイガの中の小さな村(あるいは人類文明が崩壊したあとに生き残った人類のようにも見えます),滅び行く民族を存続させるために,意に添わない結婚をしたタマラは,夫ドミトリの元が逃げ出そうとします。
 けれども彼女は結局,夫ともにその地で一生を閉じます。夫に対する理由のない(本人は「ある」と思っていたとしても)嫌悪感のため,夫に対する理解も,その夫との生活から得られる平穏も「見る」ことのできなかった彼女に,“少年”は言います。「君は光の中にいるとき闇しかさがさない人間だからね」と。ソクラテスが言うように,たくさんの人と会うことを宿命づけられた“少年”だからこそ,ごくわずかな,たったひとりの人間と深く知り合うことによって得られるものの大事さを知っているのかもしれません。

 「第七話 レスリー・ヘイワードと山田正蔵」で,キーワードとなるのは「真実を見て」です。弁護士による暗示のため,みずから犯した殺人の記憶を封印してしまい,その結果,命を狙われることになるヘイワード,そして寝たきりの老妻の表情に,自分に対する軽蔑しか見ることのできず,殺意を抱く山田正蔵。「真実」から目を背けることによって起ころうとするふたつの殺人を,“少年”は止めようとします。なぜか? それは,その日が「人類が誕生して最初で最後の奇跡の日…世界中で殺人が一見もなかった奇跡の日」だからです。
 しかし,ふたりの男が「真実」を見据えることによって殺人が回避され,「奇跡の日」が産み出されたと言うことは,もうひとつの「真実」をわたしたちに伝えます。それは,そんな「奇跡」が「最初で最後」でしかない「世界」に,わたしたちが生きているという,哀しいまでにリアルな「真実」です。このエピソードは一見ハッピーエンドに見えながら,より苦い「真実」を提示しているのではないでしょうか?

02/07/03

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