関川夏央・谷口ジロー『不機嫌亭漱石』双葉社 1997年

 明治の文豪夏目漱石が,文筆で生きることを決意するまでを描いた『坊っちゃんの時代』から10余年。森鴎外エリスの出会いと別れをメインストーリーとした『秋の舞姫』石川啄木を主人公とした『かの蒼空に』幸徳秋水大逆事件前夜を描いた『明治流星雨』と,明治時代末期の群像を描いてきたこの『「坊っちゃん」の時代』シリーズも,ふたたび漱石を取り上げた本巻で完結しました。

 この物語のメインモチーフはすでに第1部で提示されているように思えます。それは漱石のこんなつぶやきです。
「所詮,坊っちゃんは勝てんのだ。時代というものに敗北するのだ」
 原作者関口夏央によれば,このシリーズの主要舞台となった明治39年から43年にかけては,近代国家・日本が,大きく変わる時代だそうです。
 徳川幕府を倒したとはいえ,並いる欧米列強の中で,被植民地化の危機感にあえぎながら,欧米の社会制度,文化をあわただしく導入する近代国家・日本。その急激な変貌の狭間で,江戸的感性と明治的理性の狭間で,揺れ動き,疾駆する“坊っちゃん”たち。それはみずからの力で時代を変革させることができるのではないかという予感を“坊っちゃん”たちに抱かせたのではないのでしょうか? 時代もまた,そんな“坊っちゃん”たちのパワーを必要としていたのかもしれません。
 しかし,近代日本がその形を整え,しだいに国家主義を強め,そしてアジアへと植民地化を進めていく時代・・・大逆事件,日韓併合,日露戦争。そこには“坊っちゃん”たちの姿はありません。伊集院影韶に代表されるパワーエリートたちが国家を運営し,切り回していく時代です。“坊っちゃん”たちに期待された無方向ながらも力強いパワーは,国家にとってすでに用済みなのでしょう。国家が期待するのは“坊っちゃん”ではなく,あるいは冷徹なエリートであり,あるいは忠実な兵士なのです。幸徳秋水のような革命家も,石川啄木のようなモラトリアムな生活者も必要ないのでしょう。それゆえ彼らは,形こそ違え,そんな時代の転回を敏感に感じとっていたのかもしれません。そして漱石は,『坊っちゃん』を書いた漱石は,療養先の伊豆修善寺で,生死の境を漂いながら,明治の終焉=“坊っちゃんの時代”の終焉を幻視したのかもしれません。
 その一方で,漱石もまた一方でパワーエリート的な側面を持っているのでしょう。本人の意図とは別に,ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)−古い日本を愛した外国人ーを教壇から追いやる立場にあることがそれを象徴しているように思えます。しかし彼もまた“坊っちゃん”のひとりであり,それは東京帝国大学からの博士号を拒絶する姿に現れています。そんな漱石の二面性,二重性こそが,“坊っちゃんの時代”の幕引きに一番につかわしかったのかもしれません。
 この作品は,『「坊っちゃん」の時代』というシリーズタイトルはついていますが,むしろその時代の終わりを描いてきたのかもしれません。

 この作品の感想文は書くのがむずかしいです。どうも印象的なことしか書けません。また機会があれば,じっくりと考えてみたいものです。日本近代史をもう一度勉強しなおしてから(笑)。

97/08/21

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