冬目景『羊のうた』6・7巻 幻冬舎コミック 2002・2003年

 「わたし達は…羊の群れに潜む狼なんかじゃない。牙を持って生まれた羊なのよ」(7巻 千砂のセリフ)

 千砂・一砂姉弟の亡父を慕っていたがゆえに,彼らの周囲を探る元看護婦・風見忍布の出現によって,封印されていた千砂の記憶が蘇る。まるでそれを契機とするかのように,千砂は生への執着を放擲しはじめる。衰弱していく姉を前にして,なすすべのない一砂は…

 「血を吸わずにはいられない」という「業」を背負った千砂・一砂姉弟の物語は,千砂の死をもって静かに幕が引かれます。そして一砂もまた,彼女の避けられない死とともに,みずからの死を選びます。ふたりは,まるで眠るように,また心中する恋人同士のように寄り添いながら死んでいきます。
 もし,ふたりの死でもって物語が終わっていたならば,それは悲劇的な宿命を負った姉弟の物語として,(それに対する好悪は別としても)終焉していたのでしょう。しかし作者は,一砂を生き延びさせます。それも「記憶喪失」−千砂と過ごした1年間の記憶を失った形で生き延びさせます。
 正直に言いますと,この結末は,わたしを大いに戸惑わせました。一砂を生き延びさせるのはいい,しかし,なぜ「記憶喪失」なのか? しばしば「記憶喪失」は,物語を終わらせる「都合の良い便法」として用いられることがあります。つまり,それまでの(多くの場合,主人公の苦渋に満ちた)ストーリィを「なかったこと」にして,ハッピー・エンディングもどきで終わらせる手法です。本編もまた,それに類するものではないか? そんな想いがぬぐえなかったのです。
 しかし今では,この結末は,「希望」と「現実」との間での,作者のギリギリの選択だったのではないか,と思うようになりました。
 ラスト,一砂とともに歩く八重樫は思います。
 「この先,彼が失った一年間を思い出すことがあるかもしれない。“その時”をわたしは恐れない。ここから始めればいいのだから」
 もちろん彼女の希望が,どこまで通じるのかはわかりません。「姉を護れなかった」という一砂の記憶が蘇るとき,その記憶は一砂を,そして八重樫を押しつぶすこともあるかもしれません。かつて「すべてを受け入れて」姉弟の母親を迎えたはずの父親は,結局,千砂を残して自死の道を選びました。父親の「決意」は,「血の呪縛」を打ち破ることなく,失速してしまいました。一砂と八重樫が,同じ轍を歩まない保証は,この物語のこれまで展開から,けっしてありません。
 けれども作者は,それを描いていません。それゆえに,一砂と八重樫の「未来」が,姉弟の両親と同じ道をたどる可能性を一方で秘めつつ,「そうならない」希望の道をも残しています。「希望」や「決意」だけで,物事すべてが好転するということはありません。しかし「希望」や「決意」がなければ,新たな道も開けることはないのでしょう。
 「記憶喪失」という,さながら薄氷の上を歩むような危うさを潜ませた「現実」…作者が,そんな厳しい「現実」を十分に承知した上で,八重樫に「希望」を語らせたことは,千砂という「哀しい魂」に対する鎮魂の意味もあったのかもしれません。たとえ一砂が,姉とともに死ぬことを願ったとしても,千砂の願いは,やはり弟が生きることであったでしょうから。

 「運命」と呼ばれるものがあるのかどうか,わたしにはわかりません。たしかに,それなりに馬齢を重ねると,過去に起きたことの中には「もしかして,あれは運命だったのでは?」と思わせることがないわけではありません。きっと,過去にあったことは「未来」においてもありえるのでしょう。しかし,あることが「運命」であったかどうかは,それが「過去」になってみないとわからないのだと思います。ならば,「運命」なるものの存在を心の片隅に宿しながらも,「未来」に対して「希望」を抱くことも,あながち無意味なことではないのかもしれません。

 補記
 本編の感想文は,上に書いたような「戸惑い」のために,長いこと放っておかれました。そんなおり,gardyさんという方から,本編に関するメールをいただき,何度かメールを交換する中で,自分なりにこの作品に対する想いをまとめることができました。gardyさんに感謝の意を表します。

04/05/22

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