冬目景『羊のうた』2巻 1997年

 みずからの腕を傷つけ差し出す千砂,血への渇望が押さえきれない一砂は,ついに彼女の血を飲んでしまう。彼もまた,千砂と同様,呪われた運命の道を歩み始める・・・

 この前,わんだらさん@書庫の彷徨人の掲示板でホラーが話題になったとき,わんだらさんが,「バンパイアものというのはどの作品もどこかに悲哀がある」というコメントをされておられました。

 この作品も,伝説的な意味での「吸血鬼」ではありませんが,やはり他人の血を飲まずにはいられない業病を背負った少年少女たちの姿を描いています。そして彼らの苦悩と愛憎,哀しみと孤独を描き出しています。
 自分を置き去りにして自殺してしまった父親に屈折した愛情を抱く千砂,そんな彼女に手を差し伸べながらも,その業病を共有できないがゆえに愛されない孤独に落ちざるを得ない水無瀬,「発症」とともに,自分が「危険な存在」であることを知り,義父や義母,好意を寄せる少女から遠ざかろうとする一砂,彼に一途な思いを寄せる八重樫葉・・・。物語は,伝奇的体裁をとりながらも,登場人物たちの満たされぬ気持ち,すれ違う想いを丁寧にせつなく描き出していきます。

 なぜ,バンパイヤものの作品には悲哀がともなうのでしょうか? 異形としての哀しみや孤独は,他のモンスタにも共通するものがあります(「フランケンシュタインの怪物」などには,そのことが色濃く出ているように思います)。しかし,吸血鬼の場合,「他者の存在」が前提となっている点で,他のモンスタと違うように思います。
 吸血鬼は,人間の生き血を吸わないと生きてはいけない存在です。ある意味で,他者に依存しないと生きていけません。しかも,その「依存」とは,他者から血を吸うという,きわめて攻撃的な性格を有しています。もちろん「人間なんて,われわれを生かすための家畜と一緒だ」という立場をとる吸血鬼も造形することは可能でしょう(実際,そういうキャラクタの吸血鬼作品を読んだことがあります)。しかし,「依存」する対象を「攻撃」しなかればならないというシチュエーションは,しばしば,愛する相手を殺さなければならない,好意を寄せる相手を裏切らねばならない,という状況へと導かれていきます。そこに吸血鬼がその本性で抱え込む矛盾が現れます(小野不由美の『屍鬼』などは,そのオーソドックスな一例かもしれません)。
 「攻撃」と「依存」という二律背反的な性格を背負った吸血鬼。そのことが,吸血鬼に,他のモンスタとは違う,一種独特の悲哀感をまとわせているのかもしれません。

 この作品でも,たとえば千砂と父親との関係,一砂と葉との関係に見られる不安定さ,あやうさには,いずれもそんな「攻撃」と「依存」という相反する性格の間で揺れるキャラクタの心が密接に絡み合っているのかもしれません。

98/01/30

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