平野耕太『HELLSING』1〜4巻 少年画報社 1998〜2001年

 「君らの神の正気は一体どこの誰が保障してくれるのだね?」(本書より)

 王立国教騎士団−通称“ヘルシング機関”は,大英帝国と国教を犯そうとするモンスタたちを撲滅するために組織された特務機関。機関に属する最強のヴァンパイア“アーカード”は,近年,イギリスで急速に増加する喰人鬼(グール)をつぎつぎと葬り去るが,その背後に“ミレニアム”を名乗る恐るべき集団が隠れていた……

 のっけから大上段に振りかぶってみましょう(笑)

 「正義」とはいったいなんでしょうか?

 たとえばウルトラマンは「正義の味方」とされます。たしかに,怪物という「侵略者」から人類を守るという点で,彼は「正義の味方」です。しかし,もし人類が他の惑星に対する「侵略者」となったとき,彼はどのような行動を取るのでしょうか? 人類に荷担したとしたら,彼は,人類と同様「侵略者」であり,かつて「正義の味方」として戦った怪物と同じ存在です。侵略に加わらず座視するだけでも,間接的な「侵略者」としてみなされるでしょうし,また「侵略者」である人類を敵とするならば,人類からは「正義の味方」とは呼ばれないでしょう。
 結局,「正義」とは,きわめて相対的なものであり,みずからが属する集団を防衛するための「レッテル」でしかありえないとも極言できます。ならば,多種多様な集団が共存し,さまざまな価値観が錯綜する現代において,「正義」を名乗ることとは,ひとつの集団への盲目的な忠誠(それは「狂信」と呼ばれます)と,どれほどの違いがあるのでしょうか?

 本作品は,王立国教騎士団,通称ヘルシング機関を中心に,ローマ・カソリックの総本山ヴァチカンの秘密組織“イスカリオテ第13課”,ナチスの残党でヴァンパイア軍団“最後の大隊”による蜂起を目論むミレニアムの三つ巴戦を描いています。さながらホンコン・ノワールを思わせるような激しい銃撃戦,アーカードによる殺戮,と,壮絶でハードなバトルを繰り広げます。そのスプラッタ表現は,ちょっと好悪が分かれるところかもしれません。
 さて彼らの戦いの「名文」はどこにあるのでしょうか? 各巻末に収録されているインサイド・ストーリィ「CROSS FIRE」で,“イスカリオテ第13課”に属する主人公由美江が,カルト教団の教主に対して,こんなセリフを口にします。
「あたしらに何言ったってムダだって!! だってあたしら,あんたらと同じ「狂信者」だもん」
 またミレニアムの首領少佐が求めるのは「戦争」です。しかし彼にとっての「戦争」とは,たとえば「領土を拡張するため」とか「既得権益を確保するため」とか,といった「手段」ではありません。手段そのものが目的と化した「戦争のための戦争」です。ヴァチカンは彼を「狂人」と罵りますが,それに対する少佐の言葉が,冒頭に引用した言葉です。たしかにそれは嘲笑と挑発のセリフなのかもしれませんが,上記,由美江のセリフ響き合うものがあります。
 ならばヘルシング機関に「正義」はあるのでしょうか? たしかにモンスタの侵略から英国を守るという「大義名分」が,彼らにはあります。しかしミレニアムを追って,ブラジルへ渡ったアーカードが,人間を敵として戦うことの可否を,機関の長インテグラに求めるとき,彼女は,機関の「領分」を大きく逸脱します。「見敵必殺(サーチ・アンド・デストロイ)」を叫ぶとき,彼女は一歩「狂」の領域へと足を踏み入れると言えましょう。「狂」に対抗しようとするとき,人はみずからも「狂」にならざるを得ないのかもしれません。
 あるいはまた,インテグラの回想シーンで,彼女の父親は,吸血鬼の恐ろしさを「力」であると言います。人間の倫理も道徳も介在しない純粋な「力」−それが吸血鬼の最大の「恐ろしさ」なのです。それゆえ,そんな「善悪の彼岸」にある「力」をコントロールし,支配しようとするとき,人もまた道徳や倫理から逸脱し,「狂」の領域に身を置く必要があるのでしょう。もしかすると吸血鬼の恐ろしさとは,人間の奥底に潜む「狂」を引き出す恐怖なのかもしれません。

 「狂気」と「力」のみが支配する闘争…吸血鬼というモンスタがもたらしたものは,そんな「正義」はもちろん,「欲望」や「憎悪」という,たとえ負のものであったとしても人間性が入り込む余地のない闘争なのかもしれません。
 その中で,婦警ことセレスが気になるところです。血を飲まない吸血鬼…アーカードは彼女を「ハンパ者」と罵りますが,その一方で「おまえみたくおっかなびっくり夕方を歩く奴がいてもいいのかもしれない」とも言います。彼女は吸血鬼でありながら,「狂気」からも「力」からも一歩離れた存在として設定されているのでしょうか?

02/03/14

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