高口里純『伯爵と呼ばれた男』全3巻 双葉文庫 2002年

 「捨てられるのはいつも僕だ。おいていかれるのは,いつも僕の浅はかな夢だ」(本書3巻「薔薇色のきみ」より 伯爵のセリフ)

 “聖なる林”−ハリウッド。華やかな銀幕のスターたちが行き交う夢の都。しかし,その輝く光彩の陰には,女の涙があり,男の慟哭が隠されている。美しい夢を追い求めながら,現実の泥濘に足を取られる哀しい人々がいる。そんな光と影に満ちた街で,“伯爵”と呼ばれた隻眼の男がいた…

 書店で見つけて,「懐かしい」とばかりに全3巻まとめ買い。『花のあすか組!』でブレイクする前の,この作者の初期代表作です(もっとも今回,書誌データを見たら,シリーズ後半は『あすか組』と時期的に重なっているようですが)。あらためて1980年前後の白泉社系の少女マンガ誌が,ユニークな才能を世に送り出していたかを感じますね。

 舞台は1920〜30年代のアメリカ・ハリウッド。主人公は伯爵ことオスカー。ギャングルフラン組の一員で,映画俳優相手に麻薬を扱う“売人”です(この主人公設定がまた,それまでの少女マンガにはないユニークなものと言えましょう)。そんな彼が,刑事スコットと協力(?)しつつ,ハリウッドで起こる事件の真相を追う,というサスペンス作品です。そして事件は,ハリウッドという,華やかで彩りに満ちた「表の顔」と,欲望と裏切り,哀しみがあふれる「裏の顔」というふたつの「顔」を持つ街独特の性格を持っています。
 たとえばシリーズのオープニング・エピソード「日没は二度セリフを言う」(1巻)は,サイレントからトーキーへと,映画の主流が変わりゆく時代の狭間で,殺人を犯した女優と,彼女を愛するがゆえにともに堕ちていく男の物語です。女優の殺人の記憶を,麻薬と催眠術によって忘れさせようとする男の姿は,どこか「銀幕」と「現実」という「二重の生」を生きる俳優の宿命を象徴しているように思えます。また「ヴァレンチノ・タンゴ」(2巻)では,自分たちを騙した男を殺し,それを隠蔽するために互いに監視しあう3人の大部屋女優が登場します。しかしひとりは麻薬におぼれ,ひとりはスターへのステップを登り始めます。残るひとりは,自分たちを「裏切って」出世する「共犯者」を罵ります。女優のひとりは叫びます。「なにさ,たかだか二,三行の台詞に目の色変えて,殺すことなかったのよーっ」。「たかだか二,三行の台詞」のために殺人さえも犯してしまう欲望,その欲望を導き出す“ハリウッド”−それが“夢の都”の実相なのかもしれません。
 さらに「幸福(しあわせ)のスタア」(3巻)は,有名女優の自殺から物語は始ります。ゴシップもスキャンダルも,麻薬ともまったく無縁の有名スターはなぜ自殺したのか? 女優と同姓同名のファンの存在が,彼女が築き上げてきた「今」を浸食し,消し去ったはずの「過去」−スターとしてけっして明るみに出すことのできない「過去」を暴いていきます。そして死んだ女優のために「復讐」を企む男の姿は,スターという特別な存在に魅入られ,取り憑かれた人間の狂気なのでしょう。
 伯爵は,事件を追いながらも,けっして彼らを非難したり,断罪したりはしません。彼は,スコットに対して「俳優の,そして映画界の問題なのさ」と協力を拒絶し,また犯人からの「真相を知っているのになぜ話さない?」という問いに,「君らを愛しているからさ」と答えます。そう,伯爵は,ハリウッド人の華やかさや美しさとともに,虚栄も,弱さも,愚かさも,哀しみも,そして罪さえも愛しています。それはおそらく,彼らが,伯爵のあきらめた「夢」を追い続ける人々だからでしょう。麻薬の売人というネガティヴな形でしかハリウッドに関わりを持てず,エキストラとして銀幕の片隅に顔を出す伯爵。陽気で剽軽,軽薄とも言える伯爵の言動の裏側には,そんなハリウッドに対する「片思い」の気持ちがあり,それが事件に対する哀しいまでにやさしい視線となっていると思います。
 そんな伯爵の過去を描いたエピソードが「ユリカゴ・ニューヨーク」(1巻)と「夢喰紳士」(2巻)です。前者では八百長ボクサーの父親に対する屈折した想いを描き,後者では,その後知り合った“俳優”ロイドと,彼に付いてハリウッドへ来る若き頃の伯爵を描いています。とくに後者において,ハリウッドのダークサイドによって翻弄され,俳優としての人生を棒に振る男−ロイドと伯爵との関わりが描かれています。つまり,伯爵にとってのハリウッドとは,ある意味,最初から「失われた夢」だと言えるのかもしれません。あらかじめ「失われた夢」ならば,色あせることもなく,いつまでも永遠の「夢」として,「片思い」の対象として生き続けるのでしょう(それは「眠れる森の騎士」(1巻)の中で,実際に「夢」をつかんでしまった女優が,麻薬におぼれ,服毒自殺を遂げてしまうのとコントラストをなしています)。
 そしてその「片思いの夢」は,シリーズのファイナル・エピソード「薔薇色のきみ」(3巻)で,結婚し,子どももできながらも,最後にはふたたびハリウッドに戻ってくる伯爵の姿に現れているように思います。彼は相手に「ふられた」と言いながらも,妻は,伯爵の心の中に「永遠の片思いの相手」であるハリウッドを見たからこそ別れたのではないか,などと空想しています。

 ちなみにわたしが好きなエピソードは,「ヴァレンチノ・タンゴ」(2巻)と,「幸福(しあわせ)のスタア」(3巻)です。

02/08/28

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