諏訪緑『玄奘西域記』全2巻 小学館文庫 2000年

 兄の僧・長捷の魔咄(通訳)兼護衛として西天取経の旅をつづける玄奘。「僧になりたい」と願いながらも,特権階級化し贅沢三昧の日々を送る僧侶の姿,宗教同士の抗争,権力により利用される宗教を目にし,彼の苦悩は深まる。突厥の王子ハザク,不思議な仏僧プラジュニャーカラに助けられながら,彼らは天竺を目指す・・・

 この作品のことは,ずいぶん前にご紹介いただいたことがあったのではないかと思いますが(どなたの紹介だったか失念してしまいました,失礼!(_○_)),今回,はじめて手に取りました。タイトルから,てっきり『西遊記』をベースにした「伝奇ファンタジィ」風の作品かと思っていたのですが(帯にも「ファンタジック西域記」と書いてありましたし),あにはからんや,じつにユニークで,そして胸に染みる「ビルドゥング・ロマン」でした! いやぁ,おもしろかったです^o^

 まずなによりも個性的なのが,主人公玄奘のキャラクタ造形でしょう。中国における仏教界の混乱に絶望し,真の仏典を得るために天竺へ向かった玄奘といえば,高潔な理想を抱いた,強靱な意志を持った人格者・求道者としてのイメージが強いと思います(歴史上の人物としての玄奘もおそらくそうだったのでしょう)。しかし本作品の冒頭で登場する玄奘は,あくまで兄長捷の通訳兼護衛であり,「西天取経」は長捷の目的です(玄奘の言葉で言えば「兄のオマケ」です)。つまり一般的な「玄奘」のイメージは,玄奘自身よりもむしろ長捷にこそふさわしいものと言えましょう。
 しかし玄奘は,ハザクプラジュニャーカラとのつき合い,あるいは貧しい人々の宗教への祈り,そしてなにより,長捷の自分に対する深い想いに接していく中で,「取経僧」としての自分を見出していきます。とくに1巻末,死に瀕する兄から,玄奘こそが「取経僧」であり,逆に兄こそが「玄奘のオマケ」であったことを聞かされ,深い悲しみに沈むとともに,兄の遺志を継ごうとするシーンは涙を誘います。
 さらに感心したのが,玄奘の「西天取経」といえば,天竺に辿り着くことが「ゴール」とされる傾向があるのに対し,作者は,同じ比重を持って(第2巻全部を使って),玄奘に「取経」の意味を考えさせるところです。玄奘の眼前には,宗教の名を借りた権力闘争が繰り広げられ,あるいはまたそんな権力にすり寄ることで特権階級化する宗教者たちの姿がつぎつぎと現れます。宗教は人間に必要なのか? みずからの「取経」という行為が,その目的はどうであれ,政治によって利用される危険性はないのか? 玄奘は苦しみ悩みながら,自分がスタンスを確立していきます。とくに天竺統一王ハルシャ王との駆け引きを通じて,何者にも左右されない宗教者としての自分を発見していくところは,スリリングであるとともに,感動的です。なぜなら,ここで玄奘が見出す「宗教者」とは,単純に俗世から離れ,人々の幸福を祈るだけの宗教者ではなく,権力と渡り合い,戦ってゆく力強い「宗教者」だからです。ここらへんに,叙情的でありながら,それだけではとどまらないこの物語の奥行きの深さが感じられます(このシーンでのハルシャ王がじつに心憎いですね)。
 つまり作者は,玄奘を「完成された求道者」としてではなく,「未熟者」と初期設定し,「西天取経」の旅を彼自身の成長物語として描き出しています。そしてそこに,現在にも通じるテーマ―宗教とは何か? 幸福とは何か? 人間とは何か?―を盛り込むことで,秀逸なビルドゥング・ロマンに仕上げていると言えましょう。

 またこの作品の魅力のひとつは,そんな玄奘を取り巻く,彩り豊かな脇役陣です。突厥の王子ハザクとの(ちょっとホモセクシュアルな)友情,一見怪しげなインチキ僧侶ながら,その実,仏教を広めるためにはどうしたらいいかを真剣に考えるプラジュニャーカラ。彼らはつねに玄奘を影に陽にサポートし,彼らがいたからこそ,玄奘は取経僧として成長できたとも言えます。個人的には,飄々としたプーさん(笑)にすごい親近感をおぼえます。そのほか,山中で出会った少女イスカンデルクーリ,ドラヴィダで(今風にいえば)ヴォランティアに汗を流すシギリア,好々爺風でけっこう策士の正法蔵,東天竺のクマーラ王などなど,いずれも個性豊かで,その個性が玄奘のそれと響き合って,エピソードやストーリィを展開させていきます。彼らの存在は,玄奘の成長にとって重要な役割を果たすとともに,ストーリィ展開にメリハリをつけており,作者のストーリィ・テラーとしての巧みさをも物語っているように思います。

 いずれにしろ,歴史上の人物としての玄奘からも,あるいはまた『西遊記』的な玄奘からも,大きく逸脱しながらも,なおかつ,玄奘の西天取経という行為がもつ「スピリット」のようなものをすくい上げた秀作といえるのではないでしょうか。

00/01/29

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