森薫『エマ』3巻 エンターブレイン 2003年

 「この髪型,珍しい? 軽くていいのよ」(本書 ミセス・トロロープのセリフ)

 ロンドンを離れ,故郷の海辺の街へとひとり向かうエマ。偶然のきっかけから彼女は,ドイツ人一家のハウスメイドとして働くことになる。一方,エマを失ったウィリアムは,暗い気持ちを秘めながら,“イギリス紳士”として生きることを決意する。互いに求めながらも,離れ離れになったふたつの魂は,ふたたび巡り逢うことができるのか…

 毎回毎回,同じようなことばかり書いていますが,やはりこの作者,登場人物の心象風景の描き方が,じつに巧いのです。
 たとえばウィリアムエマが去り,失意のうちに過ごしていると思いきや,平穏で,「紳士らしい」生活を送る毎日。その心の奥に秘められた「決意」が,のちに明かされるのですが,その平穏さが,逆に「決意」の深さを見事に描き出しています。とくに,自宅をアマチュア芝居の会場に提供するシーン,芝居が『ロミオとジュリエット』と聞き,にっこり笑って「それは素晴らしい」と答えます。芝居の内容と,エマと自分の境遇とを重ね合わせることさえもできる場面で,この笑顔とそつのない答え方を描くことで,「紳士として生きる」ことを選んだ彼の心持ちを浮かび上がらせていると言えましょう。
 一方のエマ,ひょんなことからドイツ人一家メルダース家でメイドをすることになった彼女は,使用人たちに許されたパーティの夜,ラム酒を口にしまい,酔ってしまいます。そして送られて部屋に戻る途中,窓を通して見上げた満月が,クリスタル・パレスでのそれに重なり,涙を流します。窓の月から,ページをめくって1ページ大に描かれたクリスタル・パレスの月へという展開,そのコマの配置と大きさが,まさにエマの心の中におけるウィリアムの存在の大きさを端的に表しています。また,普段は控えめでおとなしい彼女が,「だめです…やっぱりだめです」と泣くからこそ,彼女の彼に対する想いの深さが,より鮮烈に描き出されているのでしょう(やたらめったら,感情を表に出す,昨今のマンガやドラマのキャラとは,えらい違いです)。

 ところで,そのパーティ・シーンで思わず「にやり」としました。見開きで描かれたダンス・シーンは,それはそれで,その明るく陽気な雰囲気を上手に表現しているのですが,そのシーンの手前(周囲)に描かれた腕や脚。この構図は,ロートレックの有名なポスターに由来するのではないでしょうか。でもって,このロートレックの絵は,安藤広重浮世絵の影響を受けた,いわゆるジャポニスムなわけで,こののちに登場するミセス・トロロープの趣味などに通じています。
 多少うがちすぎの気配もありますが,こんなところにも,この作者のヴィクトリア朝への熱い思いが現れているように思えます。

 さて,新展開を遂げた本巻,どうも次なる展開への伏線が引かれているように思います。ひとつはフランス語を読めるエマ,という設定。前巻で,エマが人さらいに誘拐されて,メイドになったといういきさつが語られましたが,この「フランス語が読める」という点は,彼女の出生と絡むのではないでしょうか?(一種の「貴種流離譚」になる可能性があります。それともミス・ケリーに習ったのかな?)。
 もうひとつは,新登場のミセス・トロロープ,ちょっと浮世離れした感のあるミステリアスなキャラクタです。で,彼女が一言,「ウィリアムもあのくらいになったかしら」と呟きます。そんな彼女に老メイドが,哀しそうな顔をしている。どうやら「ウィリアム」をめぐって,ミセス・トロロープには,暗い過去があるような感じです。この「ウィリアム」が,本編のウィリアムとどのように関係するのか,そこらへんはまだ謎ですが,やはり気にかかりますよね。

 ところで,この3巻と同時に,『エマ ヴィクトリアンガイド』というタイトルの「副読本」が出版されています。著者は森薫村上リコというフリーライターの方。ついつい勢いで買ってしまい,じつのところ,あまり期待していなかったのですが(<失礼!),これが読み応えのある内容となっています。また書き下ろしの短編「ある日の晩餐」や,竹本泉との対談なども収録されていて,楽しめます。

03/12/09

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