森薫『エマ』1巻 エンターブレイン 2002年

 「英国はひとつだが,中にはふたつの国が在るのだよ。すなわち上流階級(ジェントリ)以上とそうでないもの。このふたつは言葉は通じれども別の国だ」(本書より)

 19世紀末,英国ロンドン。元家庭教師ケリー・ストウナーの家でメイドとして働くエマ。厳しいところもあるケリーだが,エマの生活は平凡ながら穏やかなものだった。しかし,ケリーの昔の教え子ウィリアム・ジョーンズが訪ねてきて以来,少しずつ変わり始める。互いに惹かれあいながらも,いまだ厳然とした階級社会である世紀末イギリスで,ふたりを待ち受ける運命は…

 手塚治虫は,マンガに映画的手法を導入したといわれています。しかし基本的に「静」であるマンガを,「動」である映画のように見せるということは,(表現として不適切かもしれませんが)読者に「錯覚」させるということです。その「錯覚」の手法として,さまざまな効果を持たせた記号的な表現があるわけですが,それとともに「コマ」というのも,重要な手法のひとつだと思います。つまりコマの形や大小,配置は,ストーリィに「動き」を与えるカメラ・ワークに相当し,また一コマ一コマ内におけるキャラクタや光景の描き方は,まさにカメラ・アングルと言えましょう。
 さてなんでこんなことをつらつらと書いたかというと,本編を読んでいて思ったのは,この作品のコマわりやコマ内の描写方法に映画的なものを感じたからです。それも,いわゆる「ハリウッド御謹製のアクション映画」のそれではなく,ヨーロッパ的な(舞台がロンドンのせいもあるのかもしれせんが^^;;)「文芸作品」といった感じの手触りです。
 もちろん本編には,「動き」を効果線などで表現するシーン−たとえばウィリアムと,彼の友人でインドの王族ハキムが象に乗ってロンドンの街を闊歩するシーンなどもありますが,全体的な基調としては,むしろ一コマ一コマ,つまり映画でいえばワンカット,ワンカットが,固定されたカメラで映し出されているかのような印象を受けるのです。それは,ふたつの並列するコマそれぞれに同じアングルで,同一キャラの顔のアップが描かれ,片方(それは時間的に後になるように想定されている方)にのみセリフが挿入されるという描き方に現れています。たとえば,たくさんのラヴレターをもらったエマが断りの手紙を書いている場面,それをのぞき込んだケリーが,「みんな断るのね」と声をかける場面に用いられ,時間的な「含み」を持たせています。そしてその「含み」は,ケリーのエマに対する(老女が若い女性に対する)柔らかな思いをも表しているように思います。
 またハキムがエマに一目惚れするシーン,1ページを数コマに分け,エマの首筋や胸,指,そして顔を描き込んでいますが,それはそのままハキムの「視線」となっています。「いやらしい」などと罵られるかもしれませんが,恋する男の「目」というのは,相手の女性の体のあちこちに,ついつい行ってしまうものなのです。ここでは,コマわり=カメラワーク=視線という三者を重ね合わせることで,次ページに描かれる頬を染めたハキムへとじつにスムーズに繋げています。つまりは,ワンカットを丁寧に撮影し,そのワンカットにさまざまな情感を込める映画手法を,逆にマンガに導入することで,もっぱら「静→動」という方向に「錯覚」させていたマンガ表現を,別のベクトルで「映画化」しているとも言えるのではないでしょうか?
 そしてその「丁寧さ」は,キャラクタの描き方にも活かされています。わたしがとくにお気に入りなのは,新しい眼鏡をプレゼントするというウィリアムの申し出をエマが断るシーンです。最初は眼鏡をかけていなかった彼女は,ケリーに眼鏡を買ってもらい,街の風景を見ながら「景色ってこんなにきれいだったんだ…」とつぶやきます。そこにはなんの説明もありませんが,エマのケリーに対する感謝の気持ち,はじめて眼鏡を通して見た世界の美しさへの感動,そしてそれらを大事にするエマの優しさが,まさに「場面」によって鮮やかに浮かび上がっています。あるいはまた,ウィリアムの「婚約」の話に動揺するエマの心情は,思わず紅茶にお菓子を落としてしまうというさりげないワンシーンで表現されています。
 安易にセリフやモノローグで心の動きを描くことなく,ひとつひとつのコマ=カットを積み重ねることで,より雄弁に「心」を描き出しているこの作者の力量を如実に表しています。そしてその力量の使い方は,「身分違いの恋」という,きわめて古典的な素材を描くのに,じつによくマッチしているとも言えましょう。

02/12/09

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