山岸凉子『青青(あお)の時代』4巻 潮出版社 2000年

 狗智日子の繰り出した刃が日女子を貫いた! 永年にわたってヤマタイを支配していた女王の死は,国を大混乱に陥れ,男たちの権力争いに拍車をかける。戦乱渦巻く中,壱与がみずから選んだ道とは・・・

 「え? これで終わりなの?」というのが,一読したときの正直な感想ですが,改めて考えてみると,この物語を,いや主人公壱与の運命をハッピィ・エンドへと導くためには,この選択肢しかなかったのかな,とも思います。
 この作品は「青青(あお)の時代」と題されながらも,その実,その「青青(あお)の時代」の終焉を描いていると思います。その時代とは,女王日女子に象徴される「青銅器の時代」「女性の時代」であり,女王の「聖性」によって政治が執り行われる時代です。しかし,その時代は,狗智日子に代表される軍事力とリアリズムによって否定されます(それは日女子を刺し貫く狗智日子の刃であり,殉死と称して生き埋めにされる女官たちの姿に表されています)。
 たとえ狗智日子や狗日呼子が,日女子の「呪い」によって死んだとしても,それは「残照」でしかありません。すでに「聖性」を帯びた女王は,不用ではないにしろ,なにがなんでも必要であるわけではなくなっています。そのことは,日女子の跡を継ぐことを拒絶し,故郷の島に帰る壱与の代わりに,霊感のない天美子が,「女王」の座をあっさりと引き継ぐことに現れています。
 このような時代の変化が,「異能」を持った壱与に苛酷な宿命を強いることは目に見えています。日女子と同じような「力」を持っていても,日女子と同じスタンスに立つことを,時代はけっして許さないでしょう。ですから,壱与はヤマタイから去るのです。「政治」という舞台から,「時代」という舞台から去るのです。
 しかし,ヤマタイで,あまりに多くの人の死に立ち会った彼女は,こう言います。
「死んだ人を祀るシビのお仕事は,残された人達を慰めるものだったのね」
「島に帰ったら,あたしにも手伝わせてね」

と。彼女の「聖性」は,たしかに政治の世界にはもう不用なのかもしれません。しかし,「死」という人間の避けられぬ宿命を前にするとき,より根元的なものとして,彼女の「聖性」は,人々の「癒し」として求められるのでしょう。この物語のエンディングは,そんなことを暗示しているように思います。

 本冊には,もう1編,伝説的な天才ダンサー,ニジンスキーを描いた「牧神の午後」が収録されています。ニジンスキーについては,赤江瀑「ニジンスキーの手」という作品を読んで多少は知っていましたが,その生涯については,今回この作品を読んで,はじめて知りました。
 いわば「天才の悲劇」を描いた作品ですが,この作者の描き出すダンスのシーンは,狂的なものと紙一重の,「ぞくり」とくるような妖しさ,エロチシズムに満ちていて,ニジンスキー本人の踊りを知らなくても,彼が天才肌のダンサーであったことが,ひしひしと伝わってきます。

00/10/21

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