浦沢直樹『20世紀少年』2〜4巻 小学館 2000・2001年

 「そこは天国でも地獄でもない。空気のある“ここ”・・・ただの現実だった」(本書第4巻より)

 つぎつぎとテロを繰り返す“ともだち”。そのテロが,子どもの頃の自分が考えた「よげん」に基づいて進行していることを知ったケンヂは,“ともだち”がかつてのクラスメートではないかと疑う。さらに“ともだち”と自分が意外な関係を持っていることを知ったケンヂは,深い戸惑いをおぼえながらも,“ともだち”の計画を阻止するべく,ついに立ち上がる・・・

 以前,ある翻訳家が,自分の訳したアメリカ産の短編ミステリについて,つぎのような思い出を書いていたのを読んだことがあります。その短編とは,ある窓口担当の銀行員が,銀行強盗に襲われた際,実際には1万ドルしか渡していないのに,2万ドル渡したことにして,どさくさに紛れて,差額の1万ドルは着服しようとする,というストーリィです。で,その「銀行強盗」は,じつは危急の際の社員の対応を見るため,銀行が仕組んだ,抜き打ちの「お芝居」だったということが明らかにされるというオチになっているそうです。
 翻訳家は,この作品を訳したときには評判にならなかった,それは翻訳当時(1960年代?)の日本では,アメリカと違って,銀行強盗はさほど頻発する犯罪ではなく,それに対処するための銀行強盗の「お芝居」も,読者にとってリアリティがなかったのだろう,としていました。「しかし」と,翻訳家は続けます,アメリカ並に日本でも凶悪事件が多発する昨今(1980年代?)では,この作品は,別の受け止められ方をするのではないだろうか,と結んでいました。

 さて,なんでこんなことを書いたかは,賢明なる読者の方々はすでにお気づきのことと思います。この『20世紀少年』で描かれる“ともだち”の犯罪,そして野望・・・それらに対して,もしこの作品が10年前に発表されていたら,わたしたちは,これほどのリアリティを感じることはなかったのではないでしょうか? 
 この作品で描かれる「世界征服」や「正義の味方」といったモチーフは,子どもの頃のアニメやマンガ,特撮番組で繰り返し取り上げられた素材です。わたしも含め,ある一定の年齢の方々は,その「世界」に胸をときめかせた記憶があるかと思います。しかし,「世界征服」を企むような巨悪も,彼らに対して孤独な闘いを挑む「正義の味方」も,現実には存在しないことを知り,年をとるとともに「あれはフィクションだから」という想いとともに,記憶の奥底に沈められていったことでしょう。
 しかし,1995年,「オウム真理教事件」が発生します。アニメや特撮ものでしか見ることができないような世界観と,それを具体化するために用いられたテロリズムとの結びつきを,そしてそれがもたらした悲惨な事件を,わたしたちは現実に目にすることになりました。子どもの頃に見た「世界征服の悪夢」が実在のものとして顕現しました。たとえば4巻で描かれる,工学博士敷島教授に対して「破壊の神」を建造するよう“ともだち”が依頼するエピソードの,おぞましいまでの迫力と現実感−あるいは「現実感」の希薄さ−は,この事件を経過したからこそ持ちうるものなのでしょう。

 一方,「世界征服の悪夢」が現実化したとしても,それに対抗する「正義の味方」をわたしたちは持ちません。少なくとも,遥かな宇宙の彼方から飛来してきた巨人や,「悪の結社」の怪人たちと同等の力を備えたようなスーパーヒーローを持ちません。「悪」は存在しながら「正義」は存在しない・・・それがかつてのアニメやマンガとは決定的に違う点です。いやむしろ,こういう言い方の方がいいのかもしれません。「悪」のリアリティに対して,「正義」はあまりにフィクショナルでしかない,と。あるいは,リアルな「悪」に対して,フィクショナルな「正義」は,まったく無力である,と。
 それゆえ,本作品において,作者は「正義の味方」を,じれったいほどのスロウ・ペースで造形していきます。主人公ケンヂにしても,東南アジアのダークサイドを遍歴した末に帰国するショーグンにしても,彼らが「戦い」を始めるまでに,作者は長いエピソードを積み重ねていきます。それはおそらく,ウルトラマンでも仮面ライダーでもない,生身の「正義の味方」を生み出すためではないかと考えられます。リアルな「悪」に対抗できるのは,リアルな「正義」しかないのでしょうから・・・

01/02/21

go back to "Comic's Room"