手塚治虫『0(ゼロ)マン』全2巻 小学館文庫 1998年

 人類とは異なる進化を遂げた生命体“0マン”。とある日本人に育てられた0マンの少年リッキーは,人間と0マンの地球の覇権を賭けた争いに巻き込まれていく。渦巻く欲望と狂気の中,リッキーは,人類と0マンの共存の道を模索するが・・・。

 『少年サンデー』に1959年〜1960年にかけて連載された手塚治虫の初期SF作品です。これまでタイトルだけは知っていたものの,読む機会がありませんでした。名作と呼び声の高い作品だけに,今回の文庫化はなんとも嬉しいです。

 絵柄や表現手法は,さすがに40年近く前の作品だけに,古くさい感じがするのは否めません。しかし,それを差し引いても,おもしろく,楽しめる作品です。
 まずなんといってもテンポがいいです。まさに「SF冒険活劇」といったノリで,舞台は東京から,0マンランドのあるヒマラヤ奥地へ,さらに富士山へ,金星へ,アメリカへと,休む間もなく転々とします。またエンマ大王による東京改造,0マンランドの独裁者“大僧官”による人類への攻撃,電子冷凍機によって訪れる地球の破滅,人類の宇宙への脱出と帰還,0マンランドの革命などなど,勃発する事件も目白押しです。いまの感覚でいえば,これほどネタがてんこ盛りされた作品ならば,10巻,20巻という大長編になるところなのでしょうが,それを1冊400ページ弱で上下2巻におさめられてしまうわけですから,テンポが悪いはずがない。少々慌ただしいほどです(^^;; もちろん,発表当時のマンガを取り巻く状況は今とはまったく違うから,単純に比較することはできませんが,大ゴマで迫力という点では向上したものの,やたらストーリィが冗長になってしまいがちな現在の作品群を見るとき,こういったテンポの良さというのは,かえって新鮮に感じられます。

 それと本作品の魅力のひとつは,登場するキャラクタにあるのではないかと思います。作者は,人間と0マンとの関係を,単純に善vs悪の図式に当てはめることはしません。人間側に善人もいれば悪人もいるように,0マン側においても,野望に燃える独裁者もいれば,それを打ち倒そうとする革命家もいます。また,たとえ善人の側でも,人類を救うためには,氷河に覆われ破滅した地球から宇宙へ脱出するしかないと決断する田手上博士もいれば,地球に留まり0マンとの戦いを選ぶローヤル博士のような人物もいます。さらに“大僧官”に忠誠を誓いつつも,妻子を救ってくれたリッキーを逃がす0マンの警察長官や,0マンを憎みながらも,リッキーとともに0マンランドへ乗り込み,壮絶な死を遂げる軍人・飛車角など,さまざまなキャラクタと,彼らを巡る複雑な人間模様が,ストーリィを奥深いものにしていると思います。
 そして,なによりストーリィを盛り上げているのが,多彩な悪党キャラではないでしょうか? 手塚作品の悪役としてはおなじみの“ランプ”,人間でありながら0マンの(正確には大僧官の)手先となって地球を破滅させてしまう“エンマ大王”,革命によって0マンランドを追われた大僧官と手を結び,破滅後の地球の支配者になろうとする“チャコール・グレイ”や“カクテルの鉄”など,いずれも一癖も二癖もある悪党どもです。明朗快活,一本気の主人公リッキーより,正直なところ,はるかに魅力的です。彼らの欲望や狂気,また愚かさが,物語を活性化し,脹らませているのだと思います。

 ところで,手塚作品を評して「ヒューマニズムが根底に流れている」とか「人間賛歌」とかいうようなことがしばしば言われますが,個人的には,そんな言葉に首を傾げたくなるときがあります。むしろ手塚作品が主眼に置くのは,まず「ロマン」であり「ドラマ」であるように思います。「ヒューマニズム」は,「ロマン」や「ドラマ」をつくり上げるためのあくまで素材なのではなないか,と,手塚作品を読んでいてときどき思うのです。
 この作品も,最後には人間と0マンは和解しますが,0マンは自分たちの故郷・金星へと移住することで,物語はエンディングを迎えます。0マンが人間を「見捨てた」かのような印象を受けるラストは(手塚作品の熱心な読者でないわたしがこんなことを言うのも口幅ったいですが),もしかすると作者の人間に対する,絶望感と言ったら大げさでしょうが,深い不信感のようなものを表しているのかもしれません。どうなんでしょうかね?

98/04/09

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