その黒い車は、左のウィンカーを点滅させると車線から外れ、4・5台ぐらいは停めることが出来そうな広めにスペースを確保している路肩へと滑り込んだ。そして、口をポッカリと開けたようにボンネットが開かれたままの車の真後ろに付けると、エンジンが止まり運転席のドアが開く。
「あのー、どうかなさいましたか? 私で宜しければ、お力になりますが…。」
ボンネットを開けたままの車の持ち主は、急に声を掛けられ少し戸惑いを見せた。
「え?…あ、…あ、ありがとうございます! どうやら、エンジンがいかれちゃったみたいで…。」
そう答えると、運転席から慌てて外へ出て手招きをするようにエンジンルームの方へと歩き出した。声を掛けた人物も、話を続けながらごく自然にその後ろをついて行く。
「それは、災難でしたねぇ。しかし、貴方は運がいい。…えー、実は、私、こう見えても、車にはちょっと自信があるんです。」
と、エンジンルームを一通り眺めると、一旦その若い男性の顔に視線を移して、門脇は不適な笑みを浮かべた。
「ホントですか?!」
「ええ、勿論です。もし、私がダメでも、この手の事に長けてる知人が居ますから…。あ、そうそう、念のために通常は常備してると思うんですが、この車の取扱説明書があれば拝見したいんですが…。」
「ありがとうございます! どうぞ何でも見て下さい!」
その言葉を受けると門脇は助手席のドアを開き、若者はまた運転席へと戻った。
「失礼します…。」
シートに腰掛けた門脇は軽く御辞儀をし、
「いやー、高そうな車ですねぇ。私の部下が乗ってる車とはえらい違いです。」
そう笑いながら言うと、ゆっくりと車内を見回した。その言葉を聞いて運転席の若者は苦笑いを浮かべている。
「あ、そうそう、ここ、拝見しますね。」
と、門脇は助手席の前の備えられているボックスの蓋を指差すと、開いて書類を取り出した。
「えーと、これは……車検証……ですねぇ…。説明書、説明書…は、どれかな…。…あ、有りました。では、少しお借りします。」
他の書類を元に戻すと門脇は車外に出たが、閉め掛けたドアを再度開き、
「どうぞ、大船に乗った気持ちでお待ち下さい。そうそう、煙草でも吸ってごゆっくりどうぞ。」
と、またもや不適な笑みを浮かべた。
「そうですか!…じゃ、すみません、遠慮無く。」
「どうぞ、ごゆっくりと…。」
若者はその返事を聞くとペコリと頭を下げ、門脇はと言うと再度エンジンルームへと向かい立った。ところが、前輪のタイヤの位置からエンジンルームを覗き込んでいた門脇は、何を思ったのか、ふと少し頭を持ち上げると、その運転席の若者へと視線を移した。
彼は煙草に火をつけると暫くフロントガラス越しに空を眺めていたが、何かを思いだしたのか、ゴソゴソと探し物を始める。しかし、その探し物はなかなか見付からないようで、暫くじっとしているかと思えば、今度は頭を上げたり下げたりしている。
その様子を見ていた門脇は、少し落ち着かない思いをしていた。それは、煙草の先にやっとこさしがみついている灰が原因である。そろそろ、落ちるんじゃ…と、思った正にその瞬間、「うわっ!」という軽い叫び声と同時に、若者が運転席から飛び出してきた。Tシャツに短パンというラフな身成をしていた彼の太股に、力つきた灰が落ちたようだ。その証拠に、何度も左の太股の息をふーふーとかけている。
門脇は今まで浮かべていた苦笑いを必死に隠すと、真剣な顔を作り、いまだに太股を気にしている若者に声をかけた。
「おや? また、どうかされましたか?」
「あ、ちょっと、煙草の灰が…。」
「あら…、赤くなってますねぇ。気を付けて下さい、くわえ煙草は危ないですから…。ところで、見たところ故障らしきものが見付からないのですが…。」
「…え? そうなんですか…?」
そう言いながら開かれたボンネットと向かい合った若者は、自分には解決できる力を持っていないことを理解していながらも、未練がましくあちら此方と指先で触っている。「何故、動かないんだ?…昨夜、寝場所と決めたこの場所までは快適に走っていたのに…。」と、心の中で呟きながら腰に手をあてた。
その様子を暫く眺めていた門脇だが、ふと、何かを思いだしたかのように言葉を発した。
「ところで、岡さんは車に関して…えー、そのー、失礼な言い方かもしれませんが、どちらかと言えば不得意な方ですか?」
「ええ、恥ずかしながら、どちらかと言えば、そうです。……?」
そう答えると、若者は腑に落ちない表情を浮かべた。その表情に気付いた門脇は顔を覗き込むように尋ねる。
「ん?…どうかされましたか?」
「……あのー、"岡"って誰のことですか?」
「え? だって、車検証の所有者の欄に"岡 道春"と書かれていましたよ? 貴方、"岡"さんじゃないんですか?」
その言葉を聞いた途端、彼は苦笑いを浮かべ、
「ああ、…成る程ね…。」
ズボンのポケットから煙草を取り出すとバンパーに腰を掛け、火をつけた。そして、少し長目の前髪を書き上げると、
「"岡"は私の友人です。…この車は彼から借りてるんです。」
と、門脇の顔に視線を移した。
「あ、そうでしたか…。いやー、失礼しました。私はてっきり貴方の車だとばっかり思ってました。そうですか、借り物ですか…。…では、借りるときにその友人が何か仰ってませんでしたか? 例えば、最近調子が悪い、だとか、車内を改装したとか、…えー、どんな些細な事でも結構です、何かお聞きになってませんか?」
「いえ、これといって何も…。だから僕も困ってるんですよ…。」
「そうですか…、困りましたねぇ。んー、…本当にどんな些細なことでも結構なんですが…。そうそう、貴方が気付いたことでも良いです…。えー、例えば、エンジン音が何時もと違うとか、ハンドルが替わっていたとか…。いや、失礼。これは、ま、あまり関係ないですね。…何でも良いんです、何か御座いませんか?」
「ですから、ホントに何も聞いてませんし、何も変わった様子は無いんですよ。エンジン音だっていつもとかわらないし、ハンドルどころか車内に変わったところなんかないですよ!」
「そうですか…。…そうだ。その友人に電話をかけてみては如何ですか? 私も携帯を持ってますし…。」
「出来ればそうしたいですが、…でも無理です。」
「何故です?」
「彼、海外に出張してるんですよ。ですから携帯もつながらないし、出張先の電話番号も聞いてないし…。」
「…そうですか…。」
そう答えると、落胆した色を浮かべた顔をしながら門脇も煙草を取り出した。その数メートル離れた場所では、まるで当てつけかのように快適に走行する車が何台も通り過ぎて行く。煙草をくわえたまま暫くその様を眺めていたが、若者の沈んだ顔に視線を移すと、門脇はポケットから携帯電話を取り出した。
「致し方有りません。車に詳しい知人を呼びましょう。」
そう言いながらボタンを押し終えると上目使いで若者の顔を見ながら手を広げ、
「彼も仕事中でしょうから、出来るだけ自力で解決したかったのですが、えー、お困りのようですし…ちょっとお持ち下さい。」
と、耳へあてた。
「ありがとうございます。…そうだ、喉乾きませんか?」
若者は門脇の言葉に嬉しさを隠しきれない表情で、30メートル程先にある自動販売機を指さした。
「あそこに販売機があるから御馳走しますよ。ちょっと待ってて下さい。」
門脇は不適な笑みを浮かべると軽く頷き、
「あ、もしもし、私だ。ちょっと待って…。」と、つながった電話を手で覆いながら、
「じゃぁ、コーヒーを御願いします!」
と、既に歩き出していた若者に聞こえるよう少々大きな声をあげた。行き交う車のエンジン音にかき消されることなくその声は届いたようで、若者は振り向かないまま軽く手を挙げて答えている。その様子を確認した門脇は、携帯電話を覆っていた手をほどき再度耳元へと運んだ。
「もしもし、浅田?」
歩道に腰掛けた二人の男性は各々缶コーヒーを手にしている。
「遅いなぁ…。何やってんだか、あいつは…。」
門脇は既に飲み干した缶を指で弾き、少々の苛立ちを知らぬ間に表していた。その横でチビチビと未だに飲んでいる若者は、そんな門脇を余所に柔らかい笑顔を浮かべる。
「ところで、仕事は何をしてるんですか?」
その言葉に振り向いた門脇の顔を見て、慌てて体裁を繕い、
「いや、僕が困ってると言っても、平日の昼間にこんな時間を割いてくれてるもんで…。」
と、苦笑いを浮かべた。
門脇はその質問に、「今に解ります。」と、不適な笑みで答えた。
その時、丁度その台詞を待ちわびたかのように路肩へ一台のパトカーが滑り込んできた。それを見た若者が「もしや…」と慌てて門脇を見直すと、門脇は言葉にならない笑いをあげている。
しかし、若者の顔色はその出来事を期に一変した。それは水道の栓を開いたかのように汗が噴き出し、見る見るうちに青ざめていくではないか…。ところが、この事は門脇にとって予想出来た事柄であったらしく、その若者の変化に気付いているにも拘わらずパトカーから降りてきた浅田ともう一人の警察官を歩道から立ち上がって出迎えた。
「遅いじゃない! 何時間待ったと思ってるの?」
「え? な、何時間…って、…門脇さんの電話から15分しか経ってませんよ。」
「あ、そうだっけ? ま、いいや。それより、彼? 本当はエンジニアになりたかったって言う警官は?」
「ええ、そうです。」と、浅田は彼に視線を移すと、
「警部補の門脇さんだ。」と、門脇を紹介した。
「ご苦労様です! 事情は浅田さんから聞いております!」
その警察官は異様にハキハキした力のある言葉を発しながら門脇に対して敬礼をすると、「この車でしょうか?」と、若者の車の開かれたボンネットへ移動した。それにつられるように全員が移動すると、
「そうなんだよ。彼、このままだと困だろうから何とかしてもらえる?」
と、門脇は若者の肩に手を掛けた。
警察官は若者に視線を移すと笑顔を見せ、さっきと同じようにハキハキした力のある声で、
「はじめまして。お役に立つか解りませんが、全力を尽くします。お任せ下さい!」
と、若者に握手を求めた。その勢いに影響されたのか、若者も引きつってはいるが笑顔を浮かべ、
「は、…はじめまして。宜しく頼みます…。」
と、握手を交わした。
その様子を見た門脇は、少し車から距離をおいた場所に浅田を呼びつけると、
「彼、大丈夫? ホントにエンジニアを目指してたの?…どう見ても体育会系だけど…。」
「…そ、そうですね…僕もそう思います…。でも、我が署、始まって以来の"エンジニアみたいな警察官"ってニックネームで売り出し中だと聞いて連れてきたんですから間違いないですよ、きっと。」
「それ、誰に聞いたの?」
「彼、本人です。」
門脇は額に手を当てると、がっくりと肩を落とした。そう、今の会話は門脇を怯ませるには攻撃力が十分であったのだ。
「…ま、いいや。取りあえず段取り通り進めようか…。」
門脇はそう呟くと浅田に眼で合図を送り、それを受けた浅田はパトカーへと乗り込みエンジンを掛けた。それを確認すると門脇は、今度は車に近づき例の体育会系の警察官に声を掛けた。
「どんな感じ?」
「そうですね…、もうちょっと時間がかかりそうですね。」
「そう…。」
その返事を聞くと門脇は、今度は若者に視線を移して、
「じゃ、まだ暫くかかりそうですし、ちょっとお聞きしたい事もありますので、此方へ来ていただけますか?」
と、手招きをした。
「…え? あ、あの、…何か?」
「いえ、別に取って喰おう何て事はしませんから御心配なく。形式的なものです。」
そう答えると、門脇はパトカーの後部座席のドアを開く。その暗黙の指示に若者は疑問を抱きながら従い後部座席に腰掛けると、続いて門脇も隣に腰掛ける。そして、後ろを振り向いている運転席の浅田にこう言葉を発した。
「じゃ、署まで行って。」
「解りました。」
パトカーは浅田の返事と同時にゆっくりと動き出すとタイミング良く車道へと割り込んだ。
しかし、この事態に驚いたのは若者である。只でさえ青い顔が移動する車の中で更に青くなっていくのが見た目でも解る。
「こ、これは、どういう事ですか?!」
少々興奮した若者の言葉に対して、門脇は至って冷静に対処する。それどころか、得意の不適な笑みまで浮かべている。
「どういう事…と、言われましても、御覧の通りです。」
そう言いながら軽く両手を拡げ、
「先程も言いましたが、ちょっとお聞きしたい事がありますので署まで御同行願います。」
と、軽く笑い声をあげた。しかし、若者の気がそんな説明で治まるわけがない。彼は門脇を睨み付けると強い口調で言葉を投じた。
「だから、何故、僕が警察に行かなきゃならないのかを聞いてるんです! ちゃんとした説明も無しにパトカーで連れ去っても良いのですか?! 場合によっては名誉毀損で訴えますよ!」
そんな言葉にも門脇は相変わらず軽く笑い声で答える。悪く言えば、人を見下したような感じと言えば良いだろう。
「おやぁ? 貴方、まだ、お気付きになってないのですか? 私はもう気付いてますよ? 貴方と共にした時間の中で…。」
「何がっ?!!」
「貴方、あの車を盗んできましたね?」
その言葉を聞いたとたん、今までの勢いは何処吹く風やら、…若者は急に黙り込んでしまった。
「あららら…、素直な方ですねぇ…急に黙り込むなんて…。…えー、すみません。ちょっと失礼します。」
「えー、御無沙汰しておりました。世間では、もう秋だそうですが…。
まぁ、こんな世間話はさておき、今回、お考えいただきたいのは…、えー、何故、彼の故障した車が、盗難品である、ということに私が気付いたか…、そして、この彼が窃盗犯であることが解ったのか…。
この謎をお答え下さい。
…いや、私が言うのは何ですが、今回の事件は簡単です。既にお解りの方もいらっしゃることでしょう。
それでは、また…。門脇でした。」
門脇は改めて座り直すと、更に血の気が引いた彼に言葉をかけた。
「えー、覚えてらっしゃいますか? 私が初めて貴方にお会いしたとき、私はこう言いました。えー、貴方は運がいい……と…。」
彼は溜め息を付くと、ボソボソと言葉を発した。
「…ああ、覚えてますよ…。…運がいい……ね。どこがいいんだか…。」
「いやぁ、そんな事は有りません。貴方は運の良い方です。何しろ、私と出会ったことで、罪を償うことが出来るのですから…。」
