「御願い! ちょっと待って! 乗ります!」
彼女は慌てて車に鍵をかけると、旅行鞄を抱きかかえるように走ってきた。その女性はちょっと小柄であるがワンピースを身に付けているにも拘わらずスタイルの良さが手に取るように解る。もう少し身長があれば一流モデルとして活躍できそうなくらいだ。
そんな彼女の声が聞こえたらしく、既にエレベーターに乗り込んでいた男性2人のうち若い方の男が「開」ボタンを押して彼女の到着を待ってくれている。彼女はその事に気付いたようで急いで乗り込んだが、少々足下の悪い中を高めのハイヒールを履いていた為か御礼の言葉も少し息があがっている。
「あ…ありがとうございました…。」
「どういたしまして。えー、6階で宜しいですか?」
「あ、…はい。」
しかしその彼女の返事に対して男性達はするべき作業は無かった。そう、既に6階のボタンは押され点灯していたのである。どうやら、目的地は同じようだ。
「ところで、素敵ですねぇ、それ。御自分でされてるんですか?」
階数を尋ねた男性は、彼女の指先を指差した。
「え?…あ、これは自分の爪じゃないんです。」
その女性は笑みを浮かべると抱きかかえていた鞄を床に起き、顔の前で手を拡げると綺麗にペイントされた爪を指先から取り外してしまった。
「ほら、御覧のように付け爪なんです。」
「へぇ、これは驚きました…。よく出来てますねぇ、てっきり今流行の、…えーと…、なんだったけなぁ…?」
「ネイルアート、…ですか?」
「そうです、そうです。その、何とかアートってやつです。私はてっきり御自分で描かれたのだと…。」
彼女はその男性の言葉にクスクスと笑みを浮かべた。
「まさかぁ…。これだけ綺麗に描けたら仕事にしてますよ。」
「成る程…、確かに仰るとおりです。」
その言葉を受けた男性も、彼女の言葉に軽く笑みを浮かべた。
「…えー、ところで、申し訳なかったです、わざわざ取り外してしまうような発言をいたしまして…。つけるのに、一手間かかるでしょう?…いやぁ、本当に申し訳ないです。」
「あ、そんなに気にしないで下さい。確かに綺麗ですけど何かしっくりこないので、付け替えようと思ってたところですから…。」
「ありがとうございます。…そう言って頂けると有り難いです。…えー、失礼な事をお尋ねするかもしれませんが、もしかして、これからデートですか?」
「え?…ど、どうして解っちゃったんですか?」
「いえー、只の"感"です。」
そう答えると、男性は不適な笑みを浮かべ話を続ける。
「えー、一般的には、これから好意を持っている人物に会う予定がある女性は、自分のお気に入りのものを身につけますから、もしかしたら…と、思っただけです、はい。」
彼女は、男性の発言に対して一瞬驚きの表情を見せたが、それは徐々に納得の雰囲気へと変わり、
「そうですね。…確かにそうだわ…、自分の気にくわない服とか着ないですもんね。…うん、納得だわ…。」
と、まるで一人で呟いて居るかのような言葉を発した。そして、今度は一転、悪戯っぽい表情へと変化する。
「あのぉ。」
「はい、何か?」
「もしも、私がこれからデートじゃなかったら…、もしかして、何時もそうやって女性を口説居てるんですか?」
今度は男性が驚きの表情を浮かべる番であったようだ。しかし、直ぐさま不適な笑みを浮かべ直すと軽い笑い声を上げた。
「いやーぁ、ばれてしまいましたか!…その通りです、いつもは上手くいくんですが、今日は失敗だったようです。残念ながら…。」
その言葉が終わった丁度その時、エレベーターが6階へと辿り着いたようだ。
「いえ、そんな事ないですよ。もし、このあと私もデートじゃなかったら口説き落とされていたかもしれませんから…。」
彼女はそう言い残すと色気たっぷりの笑みを浮かべ、軽く御辞儀をしてフロントへ歩きだした。
「なかなかいい部屋ね。ちょっとしたホテルでも、この料金でこんな部屋には泊まれないわね。」
「ああ、全くだ。」
「ねぇ、何方に御願いしたの? 知人に頼んだって言ってたけど…、いつ何処でお逢いするか解らないし、その時は私からも御礼を言わないと失礼にあたるんじゃ…。」
「いいよ、俺から言っとくから。第一、お前の知らない人だし…、そんなに気を使わなきゃならない相手でもないから大丈夫だよ。」
「そう? あなたがそう言うなら私は構わないけど…。」
寛子は少し納得できない思いをしながらも、夫である徹の言葉に従うことにした。それは、そもそも、この結婚30年の記念旅行は夫婦になって初めて夫から誘ってくれた計画で、行き先から何まで全て夫が準備してくれた。この不況の中、仕事も忙しいはずなのに3泊4日の休みをとってくれ、特にこの帰路は自分の我が儘だ。少々納得が出来ない事があっても楽しい想い出にしたい気持ちのほうが寛子にとっては最優先であって、こんな些細なことで喧嘩にでもなって台無しにするくらいなら…と、言葉を飲んだのである。ましてや、昨日から少し体調をくずしている夫の事を考えると、強く追求するのも気が引けてしまう。
「ところで、体の方はどう? 熱は下がったかしら…?」
「…そうだなぁ…」
と、徹は額に手を宛うと答えた。
「まだ、ちょっとあるかもしれんな…。」
「大丈夫?」
「ああ、心配しなくても大丈夫だ。食欲もあるし、もう一晩寝れば治るだろ。」
「本当に? …まぁ、貴方がそう言うなら大丈夫だと思うけど…。…でも、この部屋もちょっと寒いわね。クーラーでも入ってるのかしら…?」
「部屋毎にクーラーは無いだろうから、空調のせいだろ。…あの"つまみ"で調節できるんじゃないか?」
徹は出入り口の扉の右側にあるスイッチのようなものを指差した。そこには部屋の入口と2m程ある廊下のような空間の為の灯りのスイッチが設けられているのだが、多分、その上部に別枠で0〜3までの目盛が刻み込まれているつまみの事を示したのであろう。その事に気付いた寛子は早速扉に近づくと、
「じゃ、切っておくわね。」
と、そのつまみを左に回しきった。
丁度その時、まるでスイッチを切るタイミングを計っていたかのように、遥か水平線まで覆っていた一面灰色の雲間から突如光が満ちあふれ、そして、カーテンの開かれた窓から差し込むその光は部屋は勿論のこと、記念旅行に来ている一組の男女をも一瞬にしてセピア色に染め上げた。…いや、それは、黄金色…と表現した方が相応しいかもしれない…。窓の外から見える波間はまるで宝石のようにキラキラと輝きを放ち、その宝石を拾い集めているかのようにセピア色に化粧した鴎が優雅に翼を拡げている。その幻想的とも言える景色を暫く眺めていた二人であったが、寛子はまるで催眠術から覚めたかのように我に返ると、扉から離れ一人用のソファーに腰掛けている徹の側に寄り添った。
「少し、暖かくなったわね。もしかしたら、私にこの旅行をプレゼントしてくれた貴方への、神様からのプレゼントかもしれないわね。」
そう言いながら微笑むと、また、二人はその景色へとけ込んでいった。
「おっ! ほら、見て下さいよ! やっと動き出しましたよ! ほらほら!」
まるで初めて電車に乗った幼子のようにはしゃいでいるのは、御存知、浅田権太郎である。彼は出窓のように設けられた…本来は部屋の壁の方が出っ張っていると言うべきであろうが…幅50cm程のスペースに立て膝姿でガラスに両手をつき、大きな体をめい一杯小さくしてやや斜め下を見下ろしている。その視線の先には、夕日に照らされながらも進路を矢印で示しているかのように真っ白い波が拡がっていき、そして、その波を縫うかのように鴎が縦横無尽に翼を拡げた勇姿を披露している。
「あ! そうだ! 門脇さん、ほら、あの映画みたいに船の先頭に行って両手を拡げてみませんか? 二人で…。」
勿論、彼一人では無いこともお約束である。門脇はポケットから煙草を取り出すと、脱いだばかりの上着をベッドに放り投げた。
「…何馬鹿なこと言ってんだか…。…あのね…、行けるものなら行って御覧。多分、立入禁止区域になってるから…。」
「えー! そうなんですか!? でも、あの映画じゃ、ちゃんと…。」
「映画は映画。現実とは違うの。…第一、もし、行けたとしても君との共演なんて願い下げだね。それ以前に、そもそも君が早く用事を終わらせていれば今頃署で旨いコーヒーが飲めてたんだよ。その事どう思ってるの?」
「やだなぁ、もう、照れちゃって…。」
相変わらずの会話を交わしている二人であるが、彼等が今何処にいるかは既にお気付きのことであろう。門脇達はある事件の捜査のため訪れた離島からの帰路なのであるが、浅田が土産を買っている時間が長く、飛行機に乗り遅れてしまったのだ。しかし、運悪くそれが最終便であったため翌日の飛行機に…という予定だったのであるが、船のことを知った浅田が同じ泊まるなら船がいい!と駄々をこねたため、乗船してから1時間ほどしてやっと動き出した客船の一室に居るのである。
「僕、初めてなんですよ、船で寝るのは。レストランのご飯も美味しそうだし…♪」
「幸せだねぇ、子供みたいにはしゃいで。料理なんて町中のレストランと同じだよ。航海中に釣った魚を料理する訳じゃないんだから…。」
「そうなんですか?」
「あのね、ちょっと考えれば解るじゃない。この船に何人の人が乗ってると思ってるの?」
「さぁ、想像つかないですけど…。でも、これだけ大きな船だったら沢山乗れるでしょうね。客室も一杯あるし…。」
「だろ? 最大1000人だって言ってたから、その人数分の魚を釣ってたら朝になっちゃうよ。ましてや、漁船じゃ無いんだから…。」
「えー! でも、港の売店のおばさんが言ってましたよ?!」
「馬鹿だねぇ…そんな子供だましの嘘を信じてたの?…ま、いいや。じゃあ、食事に行っておいでよ。そうすればはっきりするから…。…私はロビーでコーヒーを飲んでるからね…。」
門脇はこの馬鹿馬鹿しい浅田との会話から逃れたいようで、先程脱いだばかりの上着に袖を通し始めた。
「あ、そうそう。鍵をちゃんとかけといてく……いや、私が持ってた方が良さそうだ…。さ、早く行ってきなさい。鍵は私が持っとくからね。」
「解りました!じゃ、食事が済んだらロビーに行きます!……あれ?、門脇さんは食べないんですか?…一緒に食べましょうよ、一人より二人で食べた方が美味しいですよ?」
「まぁ、普通はそうだろうけど…私は後でゆっくり食べるよ。君と一緒じゃ食べた気がしないからね。さ、行った行った。」
「そ、そんな言い方ってないと思うけどなぁ…。ま、いいや。じゃ、お先に行ってきます…。」
門脇は、まるで今から遠足にでも行く子供のようにはしゃいでいる浅田を見送ると、ドアの横にあるスイッチで部屋の灯りを消し、廊下に出て扉の鍵をかけた。
この仕事に勤め始めて7年になるは前野洋一は悩んでいた。どうしても職業上、休みが合わない事にかなりの不満感を持ちながら今も業務をこなしている。…かと言って、この仕事が嫌いなわけではない。嫌いどころか子供の時からの夢を叶える為に大学を卒業すると他の業種の滑り止めは受けず、あえてこの会社一本に絞り見事入社したのだ。その憧れの気持ちは今でも変わってはいない。つまり、世間一般の休日が曜日で決まっているのに対して、今の仕事は日にちでサイクルが決まっているのである。当然、俗に言う OL という職業の彼女とは休みが合わなくなってくる。その事が原因かどうかは定かではないが、最近彼女との仲がギクシャクしてきている事実を休日のせいにして自分を慰めているのだ。
同級生である彼女と付き合い始めて5年。倦怠期…という言葉で終わらせる事も普通は出来るのだが、彼にはそれで終わらせる訳にはいかない気になる事柄を耳にしてしまったのだ。彼女の友人から聞いた話では、最近、自分以外に男性がいるようなのだ。…まぁ、事実を確認したわけでもないし、友人である彼女の話もどこかふざけている印象があったので、自分をからかっているだけかもしれない。…そう、思うようにしているのだが、実際にはこのフロントでの仕事にも身が入らないのだ。結局、いろいろと悩んでいるうちに"休みが合わない事に対しての不満感"に戻ってしまう、堂々巡りの悩み事である。
そんな彼は、端から見れば黙々とカウンターの中で仕事をこなしている真面目な青年に映っているかもしれない。…いや、そう映っているのであろう。事実、彼以外に従業員が居るにも拘わらず、彼は船客から尋ね事をされることが多い。
「すみません。」
勿論、この女性も彼に声を掛けた。
「今の部屋より、もう少し広いところが良いですけど…、移ること出来ますか?」
「あ、はい、では、御客様のお部屋は……。」
どうしたことであろう…。手がけていた仕事から顔を上げてここまで喋ると、前野は突然言葉を止めてしまった。
「ここ、宜しいですか?」
門脇はコーヒーカップを片手に、その男性に声をかけた。
「えー、煙草を吸いたいんですが…、御覧の通り、喫煙席はここしか空いていないものですから…。」
男性は門脇の言葉を聞くと辺りを見回し、
「確かに、そのようですな。私みたいな爺と一緒で宜しければ、どうぞお掛け下さい。」
と、笑みを浮かべた。
「いやぁ、助かります、ありがとうございます。では、失礼して…。」
そう言いながらコーヒーカップをテーブルに置くと椅子に腰掛け、煙草を取り出した。その様子を見ていた男性は暇を持て余していたのか、自ら門脇に声を掛けはじめた。
「お一人ですか?」
「いえぇ、えー、連れが一人居りまして…。」
門脇はこの言葉まで話すと、身を乗り出し小声で喋り始めた。
「ところが、こいつが役に立たない奴でして、…えー、連れというのは部下なのですが…。とにかく、私の邪魔ばっかりするんですよ。」
「それは大変ですなぁ。部下に恵まれない上司ほど辛いものはない。」
「そう!…正にそうです。私など、何度人事部に掛け合おうと思ったことか…。」
そこで苦笑いを浮かべると、門脇は言葉を切り替えた。
「ところで、失礼ですが、爺と仰るには、まだ、お若いです。私がお見受けした限りでは爺という言葉はお似合いにならないです。」
「いや、そんな事はないですよ。私はもう、今年で60になりますから…。」
「え?…60歳ですか…?…これは驚きました。いやぁ、それならば、尚更です。…私は50歳ぐらいにお見受けしたのですが…。」
「いやぁ、御謙遜を…。」
「いえ、ホントの事です。本当に爺という言葉はお似合いにならないですよ。」
「そうですか?…そう言っていただけると、何か私も自信が出て来ますな。」
「そうです。自信をお持ち下さい。まだまだお若いです。…えー、御覧下さい。」
門脇は煙草に火をつけながら辺りを見合わし、
「未だに席は、このテーブルの、残り二つしか空いてません。魅力的な男性ですから、もしかしたら先程の私のように若い女性から"ここ良いですか?"…なんて、声を掛けられるかもしれませんよ?」
と、少し人をからかったようなような笑みを浮かべた。相手の男性も門脇の言葉を聞いて苦笑いを浮かべている。…と、その時、まるでタイミングを計ったように一人の女性がコーヒーカップを片手に声を掛けてきた。
「ここ座って良いですか?」
二人の男性は、その声の持ち主を見上げた。
「すみません、喫煙席はここしか空いてないので…。」
彼女は微笑んだ。…と、同時に、二人の男性は互いに顔を見合わせ声を殺して笑い出した。その様子を見て驚いたのは彼女の方であろう。当然の事ながら、今まで二人が交わしていた会話を知る由もない。
