12
 夏がきた。
視界いっぱいに、大きな大きな入道雲が広がっている。むくむくと膨らんだその雲は、確かに、太った汗くさいエロ坊主に見える。昔の人が、もっと違ったネーミングをしてくれていれば、こんな想像もせずに、すがしがしい気分に浸れた。
 7月20日、海の日。今日から待ちに待った夏休みだ。とは言っても、進学校であるぼくの学校では、明日から7月31日までの午前中は補習が行われるため、名ばかりの休みな訳だ。
今日は、大西と二人で近くの海へやってきた。広大な浜辺では、ビーチ・バレーその他のイベントが開かれ、出店のテントがたくさん並んでいる。
ぼくと大西は、並んで浜辺に寝っ転がり、缶ビールを飲みながら、入道雲を眺めている。 雲は、北北西へ進路をとり、ゆっくりと流れてゆく。
「夕焼けが見えると晴れる。」
そんなことわざが浮かんだ。
 日本は、偏西風の影響を受けるから、雲は西からやってくる。だから、西の空が晴れ渡っている証である夕焼けは、晴れることの証でもある。
だけど、今日の雲は、南南東からやってくる。
 ???
 夏は、太平洋高気圧が張り出したりなんかしてるから、当てはまらないのか?
 そんなことを思いながら、今度は目を閉じてみる。日射しは、まぶたをも通し、暗闇に囚われることはない。子供がはしゃぐ声がする。遠くでボールを打つ音がする。体は火照り、汗が噴き出してくる。たまに吹くそよ風...。
 突然、大西が話しかけてきた。
 「缶ビールなくなった。買ってくるよ。」
 「いっしょに行く。」
 そう言って、二人立ち上がった。体の砂を落としながら並んで歩く。目を閉じていたから、まだ視界が馴れない。
 「今度はビール売ってくれるかな?さっきの店員、結構、疑ってたもんな?」
 「大学生だって言ったこと?じゃあ、別の店で買おうか。」
 「あっ!」
 大西が声を出した。目の前に立っていたのは、黄色いビキニ姿の山咲香奈だった。
彼女も一瞬、面食らったようで、気まずそうな表情をした。
 「来てたんだ。」
 彼女は苦笑してそう言った。
 彼女の隣に立っている男は、ぼくの高校の3年生。ラグビー部主将。怖い先輩として有名だ。ぼくらは、軽く会釈して立ち去った。
 大西が言った。
 「美男に美女で、全くお似合いのカップルだな。しかし、あの女、お前にあんだけ近づいといて、急に態度を変えたと思ったら、こうゆうことだ。自分はかわいいから何でも許されるんだって顔をしてるよ。俺はあんな女は嫌だな。」
 「まあ、いいじゃないか。人は人だ。気にするなって。」
 と、ぼくは笑みを浮かべて答えた。人間は、窮地に立たされると、どうしてこんなにも画一的な答え方になってしまうんだろう。今の出来事は、ぼくにとって、結構、衝撃的な事だったのだ。
 缶ビールは、すんなりと買えた。
 浜辺の元の場所に戻り、大西は缶ビールを開けた。
 「潜ってくる。」
と、ぼくは言って、海の方へ歩いて行った。
波打ち際で、シュノーケルにゴーグル、フィンを着けて、海に入った。最初は冷たかった海水にも、しだいに馴れてゆく。
 ゴーグルから見える海の景色は、どこまでも澄んでいる。ほんの近くを、銀色の細長い魚の群が漂っている。海底までは10mくらいか?息を止めて潜ればとどくかな?思い切って潜ってみる。もう少しのところで、クリーム色の砂を掴むことができない。あきらめて、水深5mくらいのところを何度も漂ってみる。缶ビールが効いている...。ほろ酔い気分...。
 海中で仰向けになり空を眺める。亀の甲羅の様な光が海面で揺らめいている。異世界だ。ここには時間は存在しない。音のない世界。日常から切り離された世界。酔っている。心地よい。このまま、ここに居たい...。

 職員室に呼ばれた次の日、ぼくは、大坪とガメラを問いつめた。ぼくもいっしょに「覗き」にいったのかと。
二人の記憶は曖昧だった。それほど酔っていたということだ。
 ガメラは言った。彼は、大坪にムリヤリ付き合わされて行ったのだと。そして、たぶん、ぼくは、居なかったと言ってくれた。
職員室で問いつめられたとき、大坪は恥ずかしさで居たたまれなかった。それで、とっさに、その場に居なかったぼくを、共犯者に仕立てた。それが真相のようだ。
 ぼくは、怒りのあまり、右の拳で大坪の頬を、思いっきりぶん殴ってやった。そんな風に、人を殴ったのは初めてだった。
 情けなく倒れ込んだ大坪は、何も言わなかった。自分でも悪いと思ったんだろう。
 うつむいた大坪を連れて職員室の「青ハゲ」の所に言った。大坪は、ウソを言ってしまったことを白状してくれた。
 拳が腫れた。手の甲が、テニスボールのように膨れた。病院でレントゲンを撮り、骨に少しひびが入っていることが判った。
 病院の先生は言った。
 「頭蓋骨は脳みそを守る器だ。拳よりもずっと頑丈に出来ている。だから、これは当然の結果だ。君はTVの見過ぎだね。拳で相手の顔を殴るのは間違いだ。今度からはショウテイで殴ることだね。」
 「ショウテイって何ですか?」
 「パンクラスを知らないのかね?ショウテイってのはタナゴコロ。手のひらのことだよ。正確にいうと親指の付け根の部分だ。ここで殴れば衝撃力はそれほど拳と変わらない。それに骨が折れることもないよ。」

 これで、ぼくの覗きの容疑は晴れた。そう思った。だが、そう思い通りにはいかなかった。
 人のウワサは、ぼくらを無視して流れてゆく。大坪とガメラとぼくが「覗き」をやったというウワサは学校中に広まった。
 ぼくの無実を、いろんなところで話してみるが、ほとんど効き目はない。ウワサというものは、ただ、おもしろければよいのだ。事実は重要ではない。
 そんな最悪の1学期が、昨日で終わったのだった。

 浜辺の人混みから、少し離れた岩場を目指して、ぼくは泳いだ。海から上がると、急に重力がのしかかってくる。
 「気持ちよさそうね。」
 目の前に立っていたのは、山咲香奈だった。

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