西南戦争はご存知の通り、西郷軍VS政府軍の我が国最後の内乱です。

では、どのような経緯でそうなったのかをつらつらとしつこいくらいに書いていきます。



1873年8月17日の閣議で、朝鮮に軍隊を送るという板垣らを押しのけ、西郷は使節を送り、事を起こさずに済まそうとしました。征韓論です。

しかし、欧米から戻ってきた岩倉達は、天皇に使節派遣反対の書状を提出し、天皇は使節派遣無期延期を言い渡しました。

そして、10月23日、その知らせを聞いた西郷は、政府に見切りをつけ、鹿児島に帰りました。

西郷をはじめ、板垣退助、後藤象二郎、 江藤新平、副島種臣らといった5人の参議は、辞表を提出し、政府を去りました。これを、明治六年の政変といいます。

西郷を慕う桐野利秋や篠原国幹らをはじめとする、薩摩藩出身の士族たちも数多くやめて、鹿児島に帰りました。1874年、 明治7年6月、帰郷した西郷は、私学校を設立しました。
この私学校、「学校」の名を持ってはいますが、県庁公認の政治結社で ありました。

 一つは銃隊学校といって、旧近衛歩兵で構成され、もう一つは砲隊学校といって、砲兵出身者で構成されていました。

銃隊学校の統率者は、元陸軍少将で西郷と共に郷里に帰った篠原国幹であり、また砲隊学校はやはり西郷と行動を共にした村田新八で あります。

その他に同じような趣旨で設立された賞典学校と吉野開墾社がありました。賞典学校は、西郷の賞与金をもとにして設けた もので、士官養成が目的でした。
これらの運営の一部は、西郷からの基金で行われましたが、他は全て県庁によってまかなわれていました。
何しろ県令が西郷党の有力な1人である大山綱良であったので、県政そのものも私学校のメンバーが主なポストを占めていました。まさに鹿児島は、中央政府の支配の及ばない独立国のような感じになっていたのでした。
元々、独立するのが鹿児島の風土の特徴なのか、昔、大和朝廷が全国支配をはじめたころにも、鹿児島は独立していた感がありました。(中には隼人達が朝廷の守りをしていたりしますが(^^;)

前述した本校のほかに、県下には分校がいくつも存在しており、こちらは私塾と予備軍養成をかねたような組織でありました。

政府は鹿児島に密偵を放ち、ときには私学校生にやめるように説得していたりしました。そして、1877年(明治10年)、私学校の 一部の過激派生徒たちは1月29日夜から2月1日にかけ、鹿児島にあった陸・海軍の弾薬庫を襲いました。

「おはんらはとりかえしのつかんことを!」

知らせを聞いた西郷は、そういったといいます。襲われたことを知った政府も、「宣戦布告」と受け取り、準備をはじめました。

1877年2月29日、西南戦争が始まりました。同3月4日、田原坂での戦いが始まりました。西南戦争史上、最も激しい戦いが行わ れた地でもありました。

田原坂の激闘は17日間にもおよび、政府軍の勝利で、幕を閉じました。一説には、新選組副長、土方歳三の小姓、市村鉄之助が、 桐野利秋の馬丁として西南戦争に参戦し、この田原坂で死んだともいわれていますが、真相は定かではありません。

薩摩軍は敗戦を続け、1877年9月24日、西郷隆盛は城山の見える岩崎口に向かう途中、被弾し、桐野に介錯を頼み、自刃し、 その生涯を閉じました。49歳でした。

桐野は、西郷の首を刎ねる時、「許っしゃったもんせ!」といったそうです。そして、その後に続き、他の士族たちも死んで行ったそう です。

西郷達を奉った南洲神社は、桜島のよく見える場所にあり、西郷たちの墓は桜島の見える場所にあります。

その後、大久保利通が暗殺されますが、その動機は西郷を死に追い詰めたからだとも言われています。まぁ、大久保は自ら出向いていって 西郷を説得するつもりだったようですが、かなわなかったようです。

ちなみに、大久保は鹿児島ではあまり好かれてないそうです。

イギリスやアメリカでは、大久保が暗殺された翌日の朝刊の新聞の第1面にでかでかと載っていました。本物を見ましたが、すごいなぁと思いました。欧米諸国では、大久保が首相に見られていたようです。



書簡庫へ