薩摩藩の藩制


西郷隆盛や大久保利通などの維新貢献者を多く生み出した薩摩藩は、他の藩とは一風変わっているといいます。

では、どこが変わっているのでしょうか。

それは、郷中教育などにあるといわれています。

郷中教育とは薩摩藩独自の教育方法で、同じ地域の6歳以上の男たちで構成されていました。いわば、範囲的にいえば町内会です。

そこでは6歳から15歳くらいまでを稚児といいます。稚児は二つに分かれ、小稚児、長稚児にわかれており、6、7歳から10歳までを 小稚児(こちご)といい、11歳から14、5歳までを長稚児(おせちご)といい、これをまとめて稚児と呼んでいました。

更にその上には二才(にせ)と呼ばれる元服後の14、5歳から24、5歳くらいの少年がおり、更にその上に長老(おせ)と呼ばれる 24、5歳以上のものが、下の者を指導しました。以上が郷中教育の構成員です。

郷中教育では、午前6時に、小稚児は二才の家に行き、四書・五経などの講義を受けます。この講義は、ついた順に行われていました。

講義が終わると、午前8時から神社の境内や馬場などで体を鍛え、午前10時、稚児は朝の講義の復習をします。

この時、長稚児が小稚児を指導していたようです。

午後12時に昼食の時間が設けられており、昼食をすますと川で遊んだり、雨の日は室内で大名カルタなどをして過ごしていました。

そして午後2時になると、再び朝の講義の復習をします。

この間、二才で役職についている者は、10時から2時まで藩庁で仕事をします。

役職のない二才と長稚児の一部は、造士館に通って勉強をします。そして午後4時に武芸の稽古が始まります。

薩摩藩では東郷自顕流と野太刀自顕流という、二つの独特の剣法が発達していました。この二つの剣法は、一撃必殺を元にしているため、 一度外すとすぐに構える事が難しい剣術でした。

稚児の段階で横木打ちの稽古をし、二才になると打ち回りの稽古をします。

午後6時以降は、小稚児は外出禁止となります。長稚児は二才衆が集まっている家に行き、日頃の生活態度などの指導を受け、8時に家へ 帰ることになっていました。

二才衆はそれ以後も書物を読んだり、詮議をしたりする。二才衆で解決が難しいと思われる問題は、その上の長老に相談し、 解決していきます。

その他に、5月28日には「曽我物語」を、12月14日には「赤城義臣伝(忠臣蔵)」を皆で読み、9月14日、関ヶ原の戦いの前の晩 には、島津義弘公を偲び、墓所である妙円寺に参りに行きました。昼過ぎに出発し、往復40qの道程を延々と歩きます。薩摩藩では郷中 教育を通じて、薩摩藩の思想を植え付けているといっても過言ではないと思います。

次に、文書のやり取りです。

他の藩では文書の宛名は藩主などの大勢への宛名です。しかし薩摩藩では文書は個人宛でした。それは何故か。

例えば、大久保が西郷に、「幕府は自ら倒れる」という文書を送ります。当時は飛脚や仲間内の人づてなどで文を送っていたわけで、いつ 何時手紙が奪われるかわかりません。

もし文書が幕府側に渡った際に、文書の宛名が「西郷」ではなく、「藩主」や「家老」などの多数宛であった場合、幕府側は「謀反」と して大久保と藩主等に切腹を言い渡す事が出来ます。しかし、これが個人宛だった場合は、大久保、西郷の二人だけが切腹するだけで事が すみます。

このように薩摩藩は注意深い配慮をしていた事がわかります。

薩摩藩は、幕府や朝廷に対して率直だったようです。幕府への非難の抗議も、島津久光や大久保はストレートに言いました。これは他に類 を見ないのだとか。

越前藩主の松平春獄は、幕府に対し抗議しましたが、それでも少し押さえていたようです。大胆な行動を取りながらも、文書のやり取りな どからとれるように、細心の注意を払う行動。これはどの藩にも見られないことだそうです。こういう藩だったからこそ、大久保や西郷な どの人物が生まれたのではないかと思います。

さて、薩摩弁には、よく訳が出ます。そして、何故か英語や中国語と間違われます。それは何故か(質問形式)。

答えは、間者などに意味がわからないように、方言を暗号化して城下の人々に伝えたからだと言われています。それが徐々に広まって いったと。

手の込んだ事をしますね、と今なら笑い飛ばせますが、当時にしてみればそれはもう重大な事でありました。話し合いも方言。普通の会話 も方言。前述したように、暗号化された薩摩弁は、何年も根気よくいないと意味がさっぱりわかりません。ましてや、新しい人物なんて 疑われます。さりげなく町人に混じりこむ事が出来ても、話す言葉は謎の言葉。抑揚のつけ方などでも即座にばれてしまいます。

こういう事を考え付いた藩主殿は侮れない方ですね。策士?

造士館とは。


造士館とは鶴丸城下に作られた藩校。身分などは一切関係なく学ぶ事ができました。また、費用は藩持ちなので、藩校生は払わなくても よかったのです。

近くには演武館という藩の武芸練習所がありました。今はもう残っておらず、公園になっており、市民の憩いの場として 利用されています。

ちゃんと碑は建ってます。鶴丸城は黎明館という歴史資料館になっていて、門にはちゃんと銃弾が残ってますよ。 イギリスのアームストロング砲弾の跡とか。



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