ミャンマーへの思い

念願の地へ行ってきます

 2003年1月退職が決まると私はミャンマー行きを決めた。現地に3年前から行っているT君から再三来ないかと誘われていたからだ。
 私が訪ねるT君は、鹿児島大学農学部家畜管理学教室の修士課程から博士課程に在籍していたころ、私の水田で合鴨農法の研究実験をしそのお礼にと農作業の 手伝いをしてもらっていた。また、私がかごしま合鴨水稲会の代表世話人をし、彼に事務局をしてもらい二人三脚で水稲会を切り盛りしてがんばったものだっ た。彼はその後論文がパスして博士号の学位を取得した。合鴨博士である。学術振興財団の研究員を経て財団法人カラモジア(鹿児島県鹿屋市)の技術指導員と してミャンマー現地での農村環境改善プロジェクト指導員になり活躍している。

   数回にわたってミャンマーへ来ないかと誘われたが、私はここ3年嘱託職員としてグリーンコープかごしま生協に職を得ていたので休みが取れず、また介 護の必要な母を施設に入れていなかったりでなかなか機会がなかった。三月私が退職するのを機会にまずはミャンマーへ行くことを決意したのは言うまでもな い。彼の活躍するミャンマー現地を是非とも訪れてみたいという思いは大きくなるばっかりだったからだ。幸い母も特別養護老人ホームにお世話になって私の介 護負担が軽減されているのだが、面会に行けないので母には寂しい思いをさせる。
 「大丈夫か、危なくないか」母はミャンマー行きを告げた私に毎日のように問いかける

 今回の訪問はT君が行っているプロジェクトが最大の関心事だ。「土着菌」「合鴨 農法」が 現地の農業に多大な影響を与えているという。お金をかけずに、現地にある材料を使って堆肥を作り、アヒルを使って増収に結びつけたことが、農民の関心を呼 んでいるというのである。もちろん稲作農家としては水田のことは特に興味がある。次にあるのが仏教だ。日本とは違う上部座仏教=自分を高めることを主眼と する仏教と、私たち日本の仏教=他者の救済を目的とするとの異なる性格の中身を知りたい。また、その独特のお寺=パゴダもいろいろと見学したいし、可能な らば修行をさせてもらいたいと思う。

 ミャンマーの事で私たち五〇代が思い出すのはまず「ビルマの竪琴」だろう。小学校の頃に封 切られたが、私が見たのは映画より先に「幻灯」(げんとう)であった。35mmフィルムに映画のトピック的な場面を焼き付けた30駒くらいの電気紙芝居、 今風に言えばスライドだ。今は駒毎になっているが、当時はフィルムを巻き上げて行く方式だった。先生が手でフィルムの巻き取りノブを回すと次のシーンが横 にぎこちなく展開して行く、そして薄暗い中スクリーンの照り返しにシナリオ本をかざしながら、弁士よろしく先生が声色を使いながら読み上げるのである。私 たちは胸をときめかしてスクリーンの展開を見つめ、先生の声を待った。まだテレビの無い時代、鹿児島の片田舎で映画館もない農村である、幻灯が一番の娯楽 であった。

   先生の名前も顔も思い出さないが「ビルマの竪琴」のクライマックスで叫ばれる「水島あ〜一緒に帰ろう」という声が、木造2階建ての真ん中にあった唯一の 暗幕が張ってある放送室のなかで1クラス40名ほどが詰まって暑苦しい中で響いていたのは今でも鮮明に覚えている。中学校の頃になって安井昌二主演の映 画、近頃になってテレビで中井貴一の映画を見たが、どうしても「水島あ、一緒に帰ろう」の場面になると小学校のあの時を思い出す。茶色い袈裟をかけてイン コを背中に乗せている水島の姿とともに。といっても確か最初は白黒だったと思うが、中井貴一が重なっているのであろう。  私がミャンマーとのつながりで思い出すのは他には、映画「戦場に架ける橋」の主題歌「クワイ川マーチ」、その程度であんまり無いと思う。
 中にはお父上がインパール大作戦に従軍し、九死に一生を得て生還したという方もおられよう。旧日本帝国軍隊が第2次大戦下、ビルマからインドへの進撃を行い補給 が間に合わず餓死した人、気象地勢など過酷な環境で病死した人、またインドからのイギリス軍に追撃された人、地元ミャンマー人民に襲われた人など約30万 以上従軍兵士の半分以上が非業の死を遂げたと言われる。あらゆる国の犠牲者の冥福を祈りたい。過去の日本の行為を踏まえて謙虚に動きたいと思う

 アメリカによるイラク攻撃が今日明日開始されるという3月末だが、この機会を逃したくないので行って来たい。仏教国であるし、影響は 無いと思う。

(2003年3月1日)