平家落人伝説地 垂水市 たるみず し
錦江湾の真中、桜島噴煙たなびく穏やかな内海にも、平家伝説地がいくつもあります。
もっとも、背後に大隅半島一高い高隈山を背負って、深く入り込めば隔絶される世界に
なる場所ではありますが。名前の通り温泉水等沢山の有名な水が涌き出る場所です。
伝説では、俊寛が流島の時の立ち寄り先・1170年頃
安徳帝の陵墓地・文治元年頃
梶原源太景季の隠れ場所・1199年頃などがあります。
安徳帝について、硫黄島まで到着したが、壇ノ浦後落人多くなり、密かに垂水方面に
上陸した平家の集落が多いようです。小薄、浦川内、段・・・など
ほかに、硫黄島までついて行けずに、離散・逃亡した郎党一族なども
浦川内 うらかわうち urakawauchi
高隈山系から松崎川が流れ、錦江湾に注ぐまで、現在も澄んだ綺麗な水の流れの川です。
平家の落人伝説のほかの場所と同じように、平家に纏わる河童物語が残っていました。
川の湾口からちょっと遡った、こんなに近い・・と思われる場所に「岩下観音」があります。
ここから、上流まで道路工事をしていて、新しい広いバイパスが途中まで完成しています。
岩下観音はその道路脇の崖に彫られた場所に安置され平家の信仰神だったと言われます。
名前の通り、岩下さんが管理などされていましたが、現在は、東京や都会などに出られ
遠い親戚の方が管理されています。小宝島の岩下家との繋がりはわかりません。
浦川内下・松崎川の護岸工事中 |
ちょっと洞窟のようになった場所に安置 |
岩下観音の案内柱 |
|
岩下観音 |
段 だん dan
浦川内から少し遡った所で、ここなら山の中、落人場所に相応しい?ところと納得できる場所。
この「段」は「壇(段)ノ浦を忘れるな」と言うことで、名付けた地名と言われ、大根占にもあります。
平家墓と言われている古墓群が数ヶ所あります。それも、道路沿いに剥き出しになったところや
現在の墓地でも、過疎化によりいなくなって、移されたあとのもの残りとか、哀れな場所の墓も・
古くからの墓は、段・立山・西尾など。この地、西尾姓は平家の落人宗家末裔と言われています。
![]() |
![]() 過疎化により移転の残り。 年号は江戸時代のものが 多い |
道端に放置された古墓群 平家墓と古老に聞いたが 江戸の年号が多い。武家墓も |
|
五輪塔俗称平家墓案内 | 山中薮の中17個程の五輪塔、造花の献花が |
段のお墓を訪ねていると、この蝶がよく舞っていた
ナガサキアゲハのメス。発見・シーボルト
以前は北限が九州辺りまでだったが、
最近の温暖化などで、上がっているはず
南に行けば行くほど、前羽の白い部分が
もっともっと、白くなる蝶
揚羽蝶が平家の紋に使用されて、
このアゲハ蝶が目立つということは・・・
野久妻
市木 いちき ichiki
新原姓が平家落人末裔と言われている。高隈山周辺に点在するこれらのたくさんの集落は、
道が通じていて、連携して源氏の追っ手に、そなえられるようになっていたと言われる。
浦谷−市木−野久妻−段−浦川内
海や海岸道から入る道路はどこも良く似ている | 新原姓のある場所。奥は山深いがここは写真左の入口から遠くない |
浦谷 うらのたに uranotani
小さな中俣川に沿って左右の山が迫り、上り詰めると小さな集落がある。その先は車で登るには
急で狭くなってくる。
この一連の平家集落と呼ばれる場所では、一番それらしい佇まいを見せている。
浦谷をひっくり返して谷浦−谷の浦−壇ノ浦と地名を付けたという。
駿河原 立山 大久保姓が平家の末裔とされ、坪内サジマの守の古墓がある。
ほか、愛甲、田中、岩下姓もあり、これらは、各地区と共属で、以下の連携に関しているのでは、
と思われる。海岸沿いの国道を通らず、山から各地区へ通れる道が通じているとの話しも聞かれ、
連携して源氏の追っ手に、そなえられるようになっていたと思われる。
浦谷−市木−野久妻−段−浦川内
この地域の宗家は立山氏で古文書もあったと言われる。立山権現を建立、
初めに住んだ山中の大隅湖から海を懐かしみ、中俣から川沿いに移動したという。
![]() |
![]() |
小さな川沿いに3キロほど遡った場所浦谷 | 果樹畑にポツンと、古い墓という |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
さじまの守墓と言われる・左端は江戸時代建立 | 左の写真一番右の元の墓 | この斜めの墓も古いものという。向きを 変えると翌日は、元に戻ると言う。 |
ここにも岩下家が |