田布施紀行 ルーツを訪ねてA  
たぶせ(金峰町)              

吹上浜から東シナ海に沈む夕日 


 田布施は、金峰町と名前が変わった。現在地名としての田布施は小学校等にその名をとどめているだけだ。ルーツの嫡家一部がこの金峰町にあり、とのことで訪ねてみた。

 父の姓だった小川は、元は鎌倉武士・小川太郎季能、承久の乱の戦功で、肥後益城郡七十町と、東シナ海に浮かぶ薩摩の国の甑島の島主としての地頭職を与えられ、その子・小太郎季直が配下の武士団と共に、甑島に着任した。亀城を基盤に、13代370年余り、甑島を領有してきたが、13代小川越中守中務大輔のとき、島津氏に取り込まれ改易、田布施の高橋に一千石で移封された。その高橋と、その後亡くなり墓のある田布施・大野と2ヶ所を訪ねてみた。

 高橋は、万之瀬川下流域に広がる平野部で、海岸線は東シナ海に面し、日本三大砂丘の吹上浜が続いている。万之瀬川下流対岸の加世田方面から向うと、吹上海浜公園がある。ここは、松林に囲まれたとてつもなく広い県立公園で、キャンプ場・プール・運動場・サッカー場・ローラースケート場、ほか温泉施設などもあり、自然を満喫したリクリエーションが楽しめる。(この辺りも、地名は加世田市高橋という)
 毎年7月下旬にあった「吹上浜砂の祭典」、5月に変更・一大イベントが開催、砂で作られた巨大なアートが砂丘にならぶ。

 まだ新しい「サンセットブリッジ」と名付けられた遊歩道専用の橋が、ここから金峰町高橋に向って掛かっている。サンセットブリッジは万之瀬川最下流にあり、その名の通り、夕陽の綺麗に見える場所だ。夕暮れともなると、橋のたもとに車を止めて語らう恋人同士も少なくない。釣りをしている子供も、珍しい形の嘴の鳥・クロツラヘラサギも、川面にシルエットを浮かべて、黄昏時は情緒のある風景を醸し出している。
 サンセットブリッジは車で通れないので、ひとつ上流の上ノ山橋を渡る。ついでそのまま、川沿いに下ってみる。土手に布袋竹の薮があったり、畑があったりする。南薩青少年の家までは道も舗装されているが、その先、轍がわずかに見られる道無きところまで走ってみた。砂場もあり、四駆でなくては入れない。私の車は乗用車タイプだが、幸い四輪駆動になっている。川沿いの最下流に着くと、何台か四駆車が止まっている。サーファーが波乗りしている様子だ。

サンセットブリッジと野間岳 吹上浜万之瀬川河口付近 野間半島は海を隔てて

 青少年の家から真っ直ぐ金峰山に向かって走ると、高橋中心地を抜けて、横切る国道に出る。その国道270号線を左折して国道沿いに北上すると、大野がある。

 金峰山は町のどこからでも良く見える。田圃がつらなり静かな田園風景が広がる。その山の上り口、車載ナビゲーターの画面に大野の文字がある位置に車を止めた。右手に山が迫り、ふと見たら妙に懐かしい感じの崖の上の家がある。その数軒先で、小川の墓のあるという元国会議員の屋敷の場所を尋ねてみた。こんなにはいりこんだ山の中じゃなくて国道沿いだという返事。大野も狭くない。
 表札をなにげなく見たら、児島となっていた。小川祖父と結婚した祖母黒岩琴の妹が田布施の児島家に嫁していたのは知っていた。ついでとばかり「ここも児島さんですね、シゲといったお婆さんが・・」と話をしたら、その人はシゲ婆さんを良く知ってるという。シゲ婆さんの本家から2代前に別れた家だという。世の中すごく狭い。

 帰ってから母に尋ねた。田布施の児島家に母は2度ほど行ったと言う。小さい頃に鹿児島を出た私は一度も行ったことがないはずだとも言う。でも、偶然車を止めて見た妙に懐かしいと思った家が、児島シゲの家だった。またまた、偶然通りかかりに人が見えたので、尋ねたのが児島家の親戚。不思議な巡り合わせだ。

 国道から右手に、ちょっとこんもりした林が見える。小川中務等の墓のあるところだ。もと国会議員の屋敷跡とのこと。小川家は、中務に子無き為断絶となっているが、実は島津軍によって亡ぼされたと言う。それも、騙されて袋小路に誘われ、弓矢などで射掛けられたそうだ。

 郷土の歴史や民俗学を研究発表していた父や叔母の従兄弟である小川亥三郎氏が、案内・語ったのだろう、叔母からそんな話を聞いていた。その場所でよく交通事故が起こるそうだ。それは、襲撃した島津兵に関係した子孫の人物が引き起こしているらしいと言う。それをまことしやかに、叔母が語ってくれるものだから、そこにぜひ行ってみたいと思った。事故があったかというのは、調査してないが、調べない方がよい。ロマンというには不謹慎だけど、せめて、恨みをそんなことがある、と思うだけで発散させられるのなら・・先祖の恨みがあるのなら…
ということで、合掌だけ手向ける。
 ほかにもその時、殺された家来も何人かいたようで、弓矢で射かけられた時、ひとりだけ子供が逃げ出したともいう。「じゃあ、その子がまた甑島に戻ったのか」と、思わず尋ねたいほどの講釈師のような叔母の語りだった。

 墓は、うっそうとした大きな樹に囲まれた神社みたいになった林の中にあった。以前は国会議員の川上何がし先生のお屋敷で、その中にあったという。「おがわどんはか」とよばれるここには、3名の小川姓の名前、他が刻まれている。
 戦争の招魂塚の横に、一段高くなった一坪ほどの丸くなったところに墓石がおかれ、向いに石灯籠があり、そこに名前など刻まれて。多分、国会議員の先生の頃にお参りと墓守をして戴いていたのだろう。今、ここに先生なきあと、屋敷の面影もなく、荒れ放題に荒れて、看取る直系の子孫もなく、島の領主として長い間君臨して栄華を窮めた嫡家の墓の前に立つと、今は昔日の思いがする。

 小川中務亡き後、島津家久の命で中務の婿・伊勢長次郎の弟を継がしたようだが、嫡家のこれより後は不詳。このように本家は田布施に移封滅亡したので、甑島に残っているのは分家と考えられる。里村や手打に小川姓が残っている。父の出も、そのひとつであろう。古い伝承がいろいろ伝わっている。
 
 蛇足であるが、父の祖父・小川叶介は島津の御典医を務め、参勤交代で江戸にも行ったという。下馬と書いてある立て札を無視し、駕籠だからいいのだと、そのまま城内をかごのまま通ったエピソードを持っている人と、父からよく聞かされた。

 帰りにもまたひとつ、不思議なことがあった。車の左前に思わず轢きそうになるくらい地面すれすれに、鷹だろうか、それとも鳶なのか、風きり羽の2枚ヌケ落ちているのがはっきり分かるくらいに、大きな鳥が飛んできて、思わずブレーキを踏んだ。小川家の家紋は、丸に並び鷹の羽なのである。

金峰山・金峰町は金峰米の米所である。 大野下馬場の田の神と金峰山登山口看板。雲の山金峰山


国道と旧道の分岐近く、
森のようになった屋敷跡
うっそうと繁る、森のようになった場所にある墓石
孟宗竹も伸びて、今は昔日
小川・3名の名前と、年月が刻まれ
川上氏の時、献灯されたものらしい。


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