川辺町 庭月野 にわつきの niwatukino
平家の落人集落と聞いて訪ねてみた。
峠に向う国道・道路から外れて山合いに入る
小さな沢沿いに、隠れた集落があり、30軒ほどの
人家が隠されたように佇んで、全部姓は庭月野という。
1軒の家を訪れ話しを聞いたら、次のような話しが伝わっているとのこと。
戦に負け、この地に住むことにした。辺りは旧の12月29日のことで、漆黒の闇。
荷物を解いたり用意もできない。突然出るはずのない月が辺りを庭のように照らした。
これは、神の思し召しと、名前を庭月野とする。部落名も庭月野
ここでは、正月に門松は立てない慣わしになっている。
暮れの押し迫った29日に到着し、正月用意が出来なかったからと言う。
なおここは、鹿児島で姥捨ての習慣のあった場所としても知られています。
ここは厳密に平家落人なのか、ちょっと疑問も・
薩摩は桓武天皇の流れの平家がたくさんあった。この川辺も高望王の良文の子の代から
郡司などとして、河辺氏が納めていた土地でした。島津氏が下向してから一族争いなど動乱が絶えない土地柄でした。
庭月野は承久の乱(1220年)、島津忠久に追従した安藤利家が薩摩に帰り、また日向に向い、そこで敗戦し、
加世田の鉄山(墓あり)から落ち延びてきた場所です。安藤19代利正一族5人が移り住んだ場所。
系図一巻と古文書があるそうです。
道路から開けた谷の集落があると思えない | 古いお墓を整理して納骨堂に・全部庭月野 | どことなく武家の佇まい。右奥が入口 |
壁紙は喜入町で撮影