人魚伝説

 
 海の底で一人の人魚が思い悩んでいた。先日、浜辺で
人魚を助けてくれた人間に恋してしまったのだ。姉たちが言うには一国の王子であるそうだ。
「どうしたらあの方にもう一度会えるかしら。」
 そして思い出したのが、南の洞に住むという魔女だった。彼女は「あるもの」と引きかえに願いを叶えてくれるのだ。

「王子に会うために『足』が欲しいんだね。」
 魔女が念を押すと人魚は頷いた。
「それは困ったね。私も王子が好きなのよ…ライバルは少ないにこしたことはないし…。」
「お願いっ。会うだけでもいいの。」
「じゃあ、こうしよう。足の代わりに声をもらうわ。そして、万が一あなたが王子と結婚するようなことにでもなったら、声は返すわ。結婚祝いとしてね。」
 あでやかな黒髪をかき上げながら魔女は言った。
「まあ無理でしょうけど、」

 船上では華やかな宴が催されていた。なにしろ王子の花嫁選びということで着飾った女性たちが吐いて捨てるほどたむろしており、中でも鮮やかな色のドレスをまとった黒髪の魔女はその類稀な美しさで注目を集めていた。
「王子、お初にお目にかかります。サリドナ王が娘、ルシエルと申します。」
「ルシエル姫と申されるか。お美しい方よ、以後よろしくおつきあいお願いします。」
 面喰いで少々軽いと思われる王子は魔女に、にっこりと笑んだ。
 人々が花嫁は「ルシエル」と他二、三名の内から決まるだろうと囁きあっている頃、人魚は独り遠くから王子を眺めていた。
(しゃべれなきゃ自己紹介さえできやしない。)
「あら、人魚姫。物欲しそうな目ね。一つ言い忘れたけど、あなた、王子と結婚できない時は海の泡になるわよ。じゃ、ごめんあそばせ。」
 魔女は人魚に爆弾のような驚きを与え、軽やかな足取りで去った。
(どうしよう…どうしよう。もう海には帰れない。)
 人魚がはらはらと涙を流していると波間にきらきらと鱗の光る群れが見えた。
(お姉さまっ!)
「これをっ。王子の胸を刺しなさい。その血を浴びたら人魚に戻れるわ。海に帰るのよ。
 そう言って姉たちは短剣を船に投げ上げると人目に触れるのを怖れるように静かに海に帰って行った。

 ちょうどその時、酔いを冷まそうと部屋を抜け出した王子がやってきた。
 足音に振り返った人魚見て王子は驚いた。その美しさを何と形容したらよいのだろうか。
「かわいらしい方よ。どうかお名前を。」
 人魚は何か、せめて一言。と思ったがそれは叶わぬことだった。そしてその場を逃げ出すしかなかった。走りながら人魚は考えた。王子を殺すなんてことはできない。私は泡になるしかないのか。せめて想いだけでも伝えたかった、と。

 翌朝、王子は一人の女性を伴って皆の前に現れた。人々のどよめきに、婉然と微笑んだのは人魚だった――昨晩、禿げるほど考えた人魚は次のような手紙を王子に届けたのだった。

「王子様、私はあなたをお慕いするあまり人間になってしまった人魚です。云々」

「どうやら私の負けね。文字で伝えるとは…昔なら巧く人魚を殺せたのに。商売あがったりだわ。」
 海の底で魔女は独り、ぐちた。

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