不思議な夢を見た。真珠色の月明かりに照らされた少女、舞い散る桜。
とぎれとぎれに聞こえる少女の笛はどこか悲しげで。
なぜか俺は呟いた。
「迎えに来たよ。」
◇
「誰かに見られてる?おい広志、それって自意識過剰って言うんだぜ。」
秋史がこともなげに言った。
「そうじゃない。本当に見られてる気がするんだっ。」
俺−−水沢広志は少々むっとして答えた。
「はいはい,わかりました。」
「新原君、ここわかんないんだけど、教えてくれない?」
クラスの女子が割り込んできた。
「えーと、どこ。」
ちぇっ、調子のいい奴。俺は白けて教室を出た。涼しい風が廊下を吹き抜けていく。
バシッ。
ぼんやり外を見ていたら背中を思いっきり叩かれた。
「ってえ。なんだ恭子か。」
「なんだはないでしょう。頼まれたチケット、せーっかく持ってきてあげたのに。」
チケットをひらひらさせながら意地悪く恭子が言う。
「いらないんだね。」
「わっ。謝ります。俺が悪かった。」
「どうしよっかなぁ。」
結局、恭子も連れてく羽目になってしまった。昔はもっと素直だったのにな。
「ひっろし君。深山さんとずいぶん仲良しだね。」
「ばーか。ただの幼なじみだよ。」
『深山』は恭子の姓だ。
秋史は意味ありげに俺を見た。
「じゃあ、橋渡し頼まれてくれない?」
橋渡し?
「実は僕、前から深山さんに気があったのさ。」
秋史はいともあっさりと言う。
「ああ、別にかまわないよ。」
一瞬、ためらったのはなぜだろう?
◇
まただ。やっぱり誰かに見られてる。今度こそ−−。
「あの…」
振り向くと同時に声をかけられた。
「水沢、広志君?」
「そうだけど。」
俺らの学校の制服を着てるけど見慣れない顔だった。
「わたし、菊香。よろしくね。」
それだけ言うと『菊香』は、たたっと駆けて行ってしまった。『菊香』?
◇
その夜、夢を見た。白装束の少女が泣いている。
「どうしたの?」
尋ねながら近づいて驚いた。少女の胸に紅いしみが落ちたかと思うと、みるみるうちに拡がったのだ。
◇
「わたしね、広志君のことずっと見てたの。」
なんだ、あれは菊香だったのか。
「広志君、全然気づいてくれないんだもの。声かけちゃった。」
最近、俺と菊香は一緒に帰ってる。別につきあってるとかいうんじゃにけれど。
菊香は美人の部類に入ると思う。漆黒の髪に透けるような白い肌、憂いを含むほっそりした顔。そう、浮世離れという言葉が、ある意味でぴったりの…。
◇
「最近やせたんじゃない?」
恭子が心配そうに俺の顔を覗きこんだ。
「そうか?スマートになったと言って欲しいな。」
「何言ってるのよ。さ、早く入ろう。」
今日は日曜。恭子と二人で絵の展覧会に来ていた。
「恭子、お前なんで展覧会に来たかったんだ?」
「じゃあ、広志はどうして?」
「うーん。なんでかなあ、誰かと約束した気もするんだけど。」
「ふうん。『画家になる』って?」
「ちょっと違う気がする。で、恭子は?」
「秘密。」
「あっ、ずるいぞ。」
その時、気のなさそうにゆっくり歩いていた恭子の足が、一枚の絵の前で止まった。
「悲しい絵…。」
恭子の呟きに誘われるように俺もその絵を見た。本当に悲しい絵だった。月明かりに照らされて舞い散る桜、笛を吹く白拍子。なぜ悲しいのかはわからなかったけれど…。
画題は『前世』
◇
展覧会の帰り道、それまで黙っていた恭子が急に切り出した。
「さっきのことだけど。」
「さっきのことって?」
「わたしね、展覧会に行きたかったわけじゃないの。広志とね…一緒にいたかったの。」
俺は表面では冷静を装ったけど、心臓なんか、くきくき苦しそうな音をたてている。
「それで、わたし…。」
「ストップ。」
俺は恭子の言葉を遮った。そこから先は俺から言わなきゃいけないことだと思うから。
「恭子、好きだ。」
◇
夢を見た。黒髪の少女が目の前にいる。
「千広様、とうとう行かれるのですね。」
少女は目に涙をためている。『千広』とは俺のことらしい。
「泣くな。身を立て、必ずそなたを迎えに来る。」
俺の口が勝手に動く。
「本当ですね、千広様。」
「私はそなたのものだ。」
◇
「ねぇ、広志君は生まれ変わりって信じる?」
今は昼休みで菊香と俺は教室の窓際でぼんやりしていた。
「よくわかんないなあ。そんなこと考えたこともないし。」
「わたしは信じてるの。でもね、生まれ変われない時もあるの。」
「たとえば?」
「他人を恨んだまま死んだとか、この世に強い未練が残ってる時よ。」
いわゆる自縛霊ってやつか。そう思ったとき、秋史が入ってきた。
「じゃあ広志君、帰りにね。」
秋史を見ると菊香は出て行ってしまった。秋史は菊香を全く無視している。
「怖い顔してどうしたんだ。」
「広志、お前さ、深山さんのことなんとも思ってないって言ったよな。」
ああ、そのことか。
「本当になんとも思ってないか。」
「……。」
「日曜日、展覧会に行ったろ。二人で。俺が深山さん好きなこと知ってたよな。」
「悪い。」
俺はその日のことを正直に話した。秋史はしばらく黙っていたけど、
「……だいたい予想はしてたけど。とうぶん広志とも深山さんとも顔を合わせたくない気分だ。」
そう言うと踵を返した。菊香のことも問いただされるかと冷や冷やしていた俺は、拍子抜けしてしまった。
◇
「ゆうべ、変な夢を見たの。ほら、この前行った展覧会で月明かりの中の桜の絵があったでしょ、あんな風景の中でね、首を絞められてるの−−わたしが。」
「誰に?」
「水干姿の女の人。『千広様は誰にも渡さぬ。』って言いながら首を絞めてるの。」
俺は千広と聞いて「あっ。」と思い「似たような夢を見たよ」と言いかけてやめた。何も不必要に恭子を怖がらせることはない。
「よっぽどあの絵が目についたんだね。月明かりに桜に白拍子。全部あの絵のものじゃないか。」
恭子はきょとんとした。
「え?白拍子なんかいなかったじゃない。」
そんな…確かに桜の樹の下で白拍子が笛を吹いていたはず…。
◇
音楽室の前を通りかかると、ピアノの音がもれてきた。うちの学校には防音設備なんてものがない。それにしても、どこかで聞いた曲だな…少し古風な感じの曲だけど。
「なんだ、菊香じゃないか。」
弾いていたのは菊香だった。
「広志君…今の、聞いてたの?」
「少しね。綺麗な曲だね、なんていうの?」
「『Moon Rhapsody』かな、今風に言えば。」
「月夜の狂詩曲ってとこか。」
「広志君、この曲聞いたことあるでしょ。」
菊香は悪戯っぽく笑った。
そう、どこかで聞いたんだ、どこかで…。
「悲しいな。まだ思い出してくれないかな。六百年近くも待ってたのに。」
思い出す?一体何を。
「菊香、わけのわかんない冗談はやめよう。」
菊香の目は真剣だった。冗談でないことはすぐわかる。
「おーい、広志。」
何か言おうと菊香が口を開きかけたとき、誰かが呼んだ。
「こんなとこに独りで何やってんの。」
そいつは不思議そうに俺を見た。
◇
また、夢を見た。
「誰に…も渡さ…ぬ…ぜっ…たい…に…。」
息も絶え絶えになりながら、血まみれの指で俺の足首を、倒れている女がしっかりとつかんでいる。
「ええい、離さぬか。」
無情にも俺は、その哀れな姿の女を蹴った。「うっ」と呻くと女は動かなくなった。
「御城主様、この始末は私めらが。」
家来らしき者に俺は血の付いた刀を鞘に収めながら頷いた。どうやら俺は侍らしい。
◇
「ねえ広志、明日の夏祭りどうする?」
明日、夏祭りだっけ?
「今年は新しい浴衣、誂えてもらったんだ。」
「へえー。恭子の浴衣姿なんて見たことないな。」
「新原君も誘ってさ。」
「……。」
「どうしたの?」
恭子が怪訝そうに首をかしげる。
「…秋史は行かないと思うよ。二人で行こう、せっかくだし。」
「そうね。ところでさ、広志。最近疲れてない?なんか顔青いし、この前も言ったけどやせたみたい。」
「実は…夜な夜な吸血鬼が精気を吸い取っていくんだ…。」
俺は真面目な顔をしておどけてみせた。
「ぷっ。やだ、広志ったら…。」
「はははは…」
その時俺は、誰かの刺すような視線を感じた。振り向くのが怖かった…。
◇
「花火が始まるまで間があるみたい。」
浴衣を着た恭子は妙に大人っぽく見えた。
「馬子にも衣装だね。」
「ふんだ。どうせそうですよーだ。」
恭子は口をとがらせた。すねた恭子もかわいいな。
「やっほー、恭子。」
「あっ美穂。誰と来たの?」
女の買い物とおしゃべりは長い。そう心得てる俺はそっと離れた。
−−−千広様。
誰かに呼ばれたように思った。
−−−千広様。
−−−千広様。
声のする方へ歩いた。だんだん祭囃子が遠ざかってゆく。
−−−千広様。
「俺を呼ぶのは誰だ!」
『千広』は俺の名だと、なぜか確信した。どこからともなく笛の音がする。辺りを見渡すと、月明かりに照らされて水干姿の菊香が笛を吹いている。
「菊香−−−。」
しばし言葉を失った。
「広志君−−いいえ、千広様まだ思い出しませぬか。私のこと、あの約束のこと…。」
おぼろげな記憶が頭をもたげ始めた。
「千広様は十五の時、養子としてあるお屋敷に引き取られた。」
ああ、そうだった。
「その時私に言って下さったわ。」
「『必ずそなたを迎えに来る』と?」
俺は全てをはっきりと思いだした。下級武士の子だった頃、白拍子の菊香に恋をした。そして桜の樹の下で約束を交わした−−叶わぬ恋と知りながら。
「私は待ちました。五年も十年も…それなのに、あなたに会えた時、あなたは−−−。」
菊香を斬った−−この手で。仕方なかった。それは養子先で城主の娘、涼姫に気に入られ家督を継いだ矢先のことだった。
「あれから六百年、私は彷徨い続けた。そしてやっと見つけたの…。」
そうだね、菊香。これからは一緒にいてあげるよ、許してくれるなら。
菊香のさしのべる手に、思わず手を重ねようとした時誰かが走ってくる足音がした。
「ひろしぃっ。ひろしーっ。」
恭子の声だ。
「あ、いた。どうしたのこんな所で。ずいぶん探したんだから。」
「なんでもないよ。」
俺は弱々しく笑った。菊香がいない。言いようのない淋しさに襲われた。
「具合悪いんじゃない?」
「大丈夫、それより花火始まるんだろ、行こっ。」
俺は恭子の手を取ると歩き出した。温かい、血の通った手だった。この手を握っている限り、俺は『広志』でいられる。
◇
幾日かが過ぎた夜、寝苦しさに俺は目を覚ました。そのぼんやりした頭に笛の音が響き始めた。菊香が迎えに来た−−直感でそう感じた。真珠色の月明かりが甘やかに香る。
俺は逃れられないことを知っていた…いや、逃れようとは思わなかった。笛の音はやまず、優しく強く確実に俺を誘っていく。カッターナイフの刃をしっかりと手首にあてる。
桜の根元に菊香と眠ろう、静かに。それは何よりも魅惑的な夢。
月明かりの真珠色を、鮮血が朱く、朱く染めあげてゆく。失いかけた
意識に届くのは菊香の笛、Moon Rhapsody−−−死の調べ。もう今は何もかも…。
◇
不思議な夢を見た。
真珠色の月明かりに照らされて舞い散る桜。
少女に
「迎えに来たよ。」
と囁いて手をさしのべた−−−。
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