アヘン問題を原因として、イギリスと清国(中国)の間に起こった戦争をアヘン戦争といいますが、1840年にはじまったこの戦争をきっかけに中国の半植民地化がはじまりました。中国といえば東洋一の大国であり、その中国が遠い島国であるイギリスに敗退したというニュ−スは日本にも伝えられ、有識者らに大きな衝撃を与えました。 28代島津斉彬もその一人でした。そもそも、薩摩藩は南の玄関口として古くから外国船が姿をみせていました。また、支配する琉球を通して外国の情報が多くもたらされ、開明的な視野をもっていた斉彬は、当時の西欧諸国の威力を冷静にとらえ、わが国の危機的な状況を痛感していました。 斉彬は、日本が植民地にならないためには、西欧諸国の技術を導入し軍事力を身につけることが必要であり、また、わが国が一丸となって諸外国と接していくべきであるとと考えていました。 尚古集成館には、斉彬がアヘン戦争のことを記した「アヘン戦争聞書」が収蔵されています。 斉彬はアヘン戦争を一つのきっかけに、富国強兵・殖産興業事業を強く押し進めるようになります。斉彬の様々な事業は、単に薩摩藩のものではなく、わが国の将来を考えたものだったのです。 |
薩摩切子とは、透明なガラスの上に色のついたガラスを厚くきせ、色ガラスにカットを施した着色のカットガラスで、幕末に薩摩藩で製造されていました。 薩摩藩におけるガラス製造は、27代島津斉興が製薬館を作った際に、江戸のガラス問屋のガラス師四本亀次郎を招いて薬品をガラス瓶を作らせたのが始まりです。その後、28代島津斉彬は、研究をすすめ、色ガラスの製造に成功し、これに透明なガラスを組み合わせてカットをぼとこす新しいガラス工芸品を生み出しました。 色は、紅・藍・紫・黄色・緑がありましたが、中でも、紅ガラスは当時から発色が難しいとされていました。紅ガラスには、金を使って発色させた金赤ガラスと、銅を使って発色させた銅赤ガラスの二種類がありますが、当時この色を出せたのは薩摩藩だけであり「薩摩の紅ビードロ」と称され、他の大名たちの注目を集めました。 また、薩摩切子の魅力は「ぼかし」の美しさにあると言われます。これは透明なガラスの上にかぶせた色ガラスをカットしその境を曖昧にしていくことで、色のグラデーションを生み出すというもので、これによってガラス器全体に暖かみをかもし出しています。 俗に薩摩切子と称されるこのガラスは、当時にしては高度な技術を要する一級の工芸品であったと推測されますが、斉彬の死後間もなく生産がとだえ、近年復元が開始されるまでは“幻の薩摩切子”と言われていました。 現在、尚古集成館には当時の薩摩切子30点余が収蔵されており、近くの工場では今日もその復元が行われています。 |
斉彬は、1809(文化6)年 9月28日、江戸芝藩邸にて、27代島津斉興の長子として生まれました。 1826(文政9)年3月、25代島津重豪らとシーボルトと会見するなど蘭癖大名と称された重豪に強く影響をうけて育ちました。そのため、斉彬は蘭学の素養も深く、また、支配する琉球を通して知り得た外国の情報を基に、斉彬は、早くから広い視野でものごとを考え、軍事力強化の必要性などを唱えていました。 しかし、財政改革に成功したばかりの薩摩藩では、開明的な斉彬の考え方はなかなか受け入れられず、それは、藩主交替の問題をめぐるお家騒動(高崎崩れ)にまで発展しました。 このため、斉彬が藩主になったのは、1851(嘉永4)年、なんと斉彬が47歳の時でした。その後、斉彬は水を得た魚のように様々な事業を興しますが、1858(安政5)年、藩主になって七年あまりでその生涯を閉じることになりました。 しかし、集成館事業に代表される斉彬の事業は、わが国の近代化のさきがけとなったのです。 |
1851(嘉永4)年、藩主に就任した島津斉彬は、日本を強く豊かな国にするために、様々な事業を展開しました。この中核になったのが、鹿児島市吉野町磯に造られた近代的な工場群「集成館」でした。集成館には、溶鉱炉・反射炉・鑚開台といった施設が立ち並び、軍事力強化のために大砲などが造られました。その他ガラス工芸品などを造る工場など様々な種類の工場や施設が造られ、多い時には1200人もの人が働いていたといいます。 しかし、斉彬が亡くなった後は、これらの事業も縮小され、1863(文久3)年の薩英戦争で大半が焼失してしまいました。しかし、斉彬の事業の意義を痛感した29代島津忠義らは、すぐさま集成館の再建を行い、慶応元年、蒸気鉄工機械所の建設を契機に施設の整備を始めました。 |
わが国初の洋式の軍艦 昇平丸は、鹿児島の桜島の造船所で造られました。 この船は、翌年(安政2年)に幕府に献上され、幕府関係者や諸大名をはじめ一般の人々を驚かせ、その後は昌平丸と改名され、長崎で海軍伝習用に使われました。 しかし、昇平丸が完成するまでは、ひとかたならぬ苦労があったのです。 当時、幕府は大船の建造さえも禁止していました。しかし、なんとしても洋式の軍艦が必要であると考える斉彬は、交渉の末、まず、琉球船の建造の許可をとりました。琉球船とは、三本マストの中国風の船で大砲の絵が描いてあるというもので、琉球通いにだけ使用せよというのです。もちろん、斉彬は本物の大砲を積もうともくろんでいたのです。アヘン戦争に大きな刺激を受けていた斉彬は、日本が諸外国がら身を守るには、大海を航海できる大きな船、それも軍艦が必要であると考えていたのです。斉彬が、1854(安政元)年5月にこの琉球船の建造を始めると間もなく、ペリーが来航し、国内にも緊張が走りました。斉彬はすかさず軍艦や蒸気船の建造、洋書の買入の許可などを幕府に申し入れました。 今度は、さすがの幕府も大型船建造の禁止を解き、わが国初の洋式軍艦昇平丸が誕生したのです。 そして、昇平丸は日本の総船印「日の丸」をかかげ、1855(安政2)年2月13日、江戸にむけて進水したのです。 |
わが国初の溶鉱炉は薩摩藩によって1854(安政元)年に完成しました。 28代島津斉彬は、洋式産業の育成に大きな力を入れており、反射炉を建造して大砲造りに着手しました。反射炉建設のさきがけといわれる佐賀藩でも鉄は輸入に頼っていたと言われてますが、斉彬は鉄も藩内で造ることを考え、1851(嘉永4)年には雛形をつくり、翌年から集成館内での洋式高炉の建造が始まりました。 従来、わが国では古代より「たたら法」と呼ばれる銑鉄の技術がありましたが、従来の製鉄では、大砲を造るに適した大量の鉄を造ることができませんでした。そこで、薩摩藩では銑鉄の自給に着手し、完成した高炉では吉田(宮崎県えびの市)の鉄鉱石や志布志(大隅半島東部)・えい(薩摩半島南部)の砂鉄を使い、良質の鉄が作られたと言われています。 残念ながら薩摩藩の高炉については残された資料に乏しく、不明瞭な点が多いのです。しかし、最近では、薩摩藩で銑鉄に成功したのは、薩摩藩に古くからあった製鉄の技術をうまく応用することができたからではないかとされ、また、わが国で初めて洋式の高炉で鉄鉱石から銑鉄を精練するのに成功したということはもっと高く評価されるべきであるとして、発掘調査や在来技術の研究が進められています。 |
幕末、幕府は大船建造を禁止していました。しかし、28代島津斉彬は、わが国が諸外国と対等に戦うためには、なんとしても外洋航海に耐え得る大型の船、ひいては軍船を建造する必要があると考えていました。 斉彬は、1851(嘉永4)年、鹿児島市吉野町磯で洋式帆船づくりを始めました。斉彬は、洋書を翻訳させ、長崎から洋式船の絵図や雛形をとりよせて研究をすすめ、1854(安政元)年に三本マストの「伊呂波丸」を完成させました。 その後、斉彬は幕府に大船建造を願い出て、琉球へ通う大砲船としてわが国初の洋式軍艦「昇平丸」を完成させました。さらに、斉彬は蒸気船造りの研究をすすめ、遂に日本で最初の蒸気船「雲行丸」を完成させました。これらは、いずれも蘭書を翻訳したり、わずかばかりの情報を集めての手探りのものでした。 わが国の近代化の象徴ともいえる、造船技術の発達もやはりここ薩摩にその原点をみることができるのです。 |
反射炉とは、火床で木炭や石炭などの燃料を燃やし、炎を耐火レンガの壁に反射させて鉄を溶かして型に流し込むという、大砲を鋳造するための炉です。 薩摩藩では、1852(嘉永5)年、28代島津斉彬の命によって建造に着手しました。当時は、わずかながらの西洋の書物を手掛かりに試行錯誤を繰り返しながらの建造でした。当時、すでに佐賀藩では、反射炉の建造に成功し、操業を行っていたと言われています。斉彬は、失敗に落ち込む藩士らを「西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人もまた人なり」と言って激励しました。 その後も、試行錯誤を繰り返し、1857(安政4)年の頃には、ようやく完成となりました。 ところで、薩摩藩の反射炉は、薩英戦争時に崩壊してしまったため、現在までのところ、文献上でしか知られておらず、その実態が必ずしも明らかではありませんでした。 (株)島津興業では、近年、本格的な調査に着手しておりますが、現在、その基礎部分を確認することができました。地元産の石を使ったとみられる基礎石は、高さ約55センチ、幅約50センチの大きさで上質なものであると見られています。当社では、文献上の史実の整理に、発掘の成果を加え、本年度中に報告書を完成する予定でおります。 |
28代島津斉彬は、わが国の国旗「日の丸」の生みの親でもあります。日の丸は単純なデザインですから、古来よりいろいろな形で使われていました。しかし、白地に赤い丸の日の丸を、日本の印にすることを幕府に提案したのは、斉彬なのです。 当時は、国内でさえも自由に移動することができない時代でした。また、長く鎖国を続けていたわが国では、藩という意識が強く、まるで他藩が外国といったイメ−ジでした。そのため、日本を象徴するような印はありませんでした。 しかし、当時の日本には、開国を求めて外国船が来るようになっていました。斉彬は、わが国が植民地の危機にさらされていることを敏感に感じ、わが国が諸外国と対等に接するためにも、わが国が一丸となることが必要であると考えていました。さらに、戦にそなえ、他国船とわが国の船を区別する印が必要であると考え、幕府に提案したのです。 1854(安政元)年、幕府も斉彬の考えを採用し、日の丸をわが国の総船印にすることを決めました。 |
1867(慶応3)年、わが国初の洋式紡績工場「鹿児島紡績所」が鹿児島市吉野町磯につくられました。薩摩藩では、25代島津重豪の時代から大坂から運んだ綿花によって綿布が織らせていました。その後、28代斉彬は、藩内での綿花の栽培を始め、紡績所をつくり、手織で木綿の製造を行っていましたが、その後水車を動力とした紡績所へと発展させました。また、斉彬は、家臣の石河確太郎らに紡績の研究を命じました。斉彬の死後、1865(慶応元)年に留学生が英国に派遣されると、五代友厚らのはたらきによってイギリスから紡績機械が買いつけられ、わが国初の洋式紡績工場がやはり鹿児島でスタートしたのです。同時にイギリスから技師が招かれ、紡績所の指導にあたりました。この技師らの宿舎は、現在も異人館として鹿児島市吉野町磯に残っています。 また、石河確太郎は藩命により堺に敷地を買入れ、1870(明治3)年に堺紡績所の操業を始めました。 鹿児島紡績所も堺紡績所も、わが国の紡績事業の先駆をなしたものであり、その後、これらの紡績所は官有となり新しい日本政府によってさらに発展を遂げたのです。 近代国家日本が重用視した紡績事業もやはり、ここ薩摩から灯が点ったといえるでしょう。 |
製鉄を参照。 |