浜崎太平次正房は文化(ぶんか)11年(1814年)に指宿村湊のヤマキという商家に生まれました。太平次は薩摩藩の後盾(うしろだて)もあって事業を拡大するとともに薩摩藩の財政の立て直しにつくしたといわれています。その後、現在の鹿児島市に移り、そこを拠点として那覇、大阪、新潟、佐渡、函館などに支店を置きました。こうした事業の拡大で第8代太平次(たへいじ)は巨万の富を築いたといわれていますが、文久(ぶんきゅう)3年(1863年)に大阪で病にたおれました。現在、墓は湊公園内に、頌徳碑は指宿市湊の稲荷神社にあります。
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